千葉 成田山
不動明王が好きで好きで仕方ないという方も稀にいるだろう。今までそういう方には一度も会ったことはないが、この世にはそういう方もいるのかもしれないと思うので、そういう方の為にも、今回は不動明王で有名な千葉の成田山新勝寺についての話を書こうと思う。
ちなみに成田不動の開帳は筆者の卒論のテーマなので、いつになく力がみなぎっている。これを神通力と言うのだろうか。
ちなみに不動明王を祀る有名なお寺は、わりと関東圏に多い。成田不動、大山不動、高幡不動なんて有名どころである。目黒不動、目赤不動、目白不動、目黄不動、目青不動は五色不動といって有名である。筆者は五色不動では目黒不動しか訪れたことはないが、興味のある方は五色を制覇してみてはどうだろう。
しかし、目黒不動も近くにある五百羅漢寺とセットでないと、観光としては物足らない気もする。観光ではなく信仰をしている方には問題はないだろう。五百羅漢寺には、江戸時代に製作された美術的価値の高い五百羅漢像が無数にあるので、是非訪れてみてはどうだろうか。
また話が不動から脱線してしまった。ちなみに関西では東寺、それにまだ訪れていないが、青蓮院門跡の青不動、曼殊院門跡の黄不動、東福寺同聚院なども有名である。と言っても、三井寺の黄不動を見に行ったことがあるが、開帳していなければ見れないというものなので運悪く見れなかった。泣きたい。そういうこともあるからご注意願いたい。
それはそれとして、不動明王とは何か。密教の守護神であり、如来や菩薩よりもちょっとばかり衆生に厳しいのが明王である。優しい先生が如来で、その助手さんが菩薩だとしたら、不良担当の元ヤンの先生が不動明王である。そういう熱血な先生が高校時代にいたので、私は不動明王の話を聞いてすぐにピンときたのである。
よく如来は真理そのものであって、菩薩は衆生の側に立って寄り添う存在で、不動明王は悪い衆生の頭をポカンとひと叩きする存在というような話に例えられる。そうしてみると人間というのは皆、心の内にどこか不良なところがあるものなので、生涯で一度や二度、不動に頭をポカンと叩かれているのだろう。
しかし、熱血だからこそ頼りになることも多い。不動明王は泣きながら悪い子供を折檻する母親のようなものだという。その瞳からは涙がこぼれ落ちているとかいないとか。私は実際には涙がこぼれ落ちている不動明王像を見たことがないが、不動明王の忿怒というのはそういう情の入り混じったものなのである。
不動明王はそのようにして不良な衆生を叱るばかりでなく、その業火で人間の内なる煩悩を焼き尽くし、外側に対しては仏敵を焼き払うという大変に荷の重いお仕事をされている。
そういう不動明王は、実は平等性智という普遍的な平等性を象徴する仏である。ちなみに妙観察智という特殊的な個別性を象徴するのは観音菩薩である。ちなみに仏教における、平等というのは今日社会的に言われるような意味での平等以上に、無分別すなわち無差別的認識ないし無差別的真理のことを意味する。
成田不動のそもそもの起こりは、平安時代の平将門の乱の際に、将門調伏の為に京都の高雄山神護寺から不動明王像を運んできて、将門調伏の護摩祈祷をしたことに始まるのである。この利益があって、将門は死んだ為、護摩祈祷を修した場所に成田山新勝寺が建てられたのである。
しかし、成田不動が有名になったのは江戸時代に入ってからのことであった。当時、江戸っ子には「江戸っ子ならば神田明神だぜ、いえーい」というようなノリがあったが、その神田明神が祀っている平将門は成田不動に調伏されたようであるし、神田明神は度々火災で焼かれてしまったのだが、それがまた不動明王の業火に焼かれているように思えていけない。そういうところから不動明王は神田明神に対する優越性を誇っていた。
そして、成田不動尊を抱えて、深川の八幡宮に出張してきて、十回以上も不動明王の開帳を行ったのだから、江戸庶民はこれを一目見てみようという気持ちと、その時に出る見世物小屋や茶店でとにかく騒ぎたいという気持ちがごちゃごちゃになって、とにかく大変な経済利益をもたらした。その噂を聞いて桂昌院も「ちょっと待ちなさいよ、大奥でも開帳しなさいよ」と言うような意味合いのことを言ったので、大奥でも開帳をして、二千両だか、あるいはもっと収入を得たという大層な話である。
そうなると江戸にたどり着くまでの開帳行列というものは派手になるし、ファンクラブ的な信仰集団である講だの講中だのというのは江戸を中心に無数に増えていって、成田山は大変に羽振りが良かった。
雰囲気の良い参道を歩きながら思う。成田山と言えば第一に鰻である。良い香りがするのだが、未だに成田山の鰻というのは食べたことがない。貧乏人というのはこれだからいけない。まあその代わりに、栗羊羹とスイートポテトを食べたから良しとしよう。
成田山は実に立派なお寺である。関東圏でこれほど豪勢な雰囲気を持つお寺はないような気がする。広い境内に大きな伽藍がいくつも立ち並び、大きな池があって、書道の美術館があり、お山の一番高いところには平和の大塔があって巨大な不動明王像が祀られている。
私が始めに真言密教に興味を持ったのはこの成田山に訪れたことからである。ちなみに成田山新勝寺は真言宗智山派である。鎌倉に訪れたのとどちらが先だったか知らないが、このお寺には大変に感銘を受けたものである。




