滋賀 比叡山4
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天台宗の思想に「円融」という重要な思想があるが、これはこのエッセイを読み進めてこられた方であれば、自明の理であるとも思えるので、簡単な説明で終わらせたいと思う。
円融というのはそれぞれの存在同士が溶け合って結びついていながらも、独立しているという思想であり、そうして見ると世界は大きな一つの円であるということである。
仏教というのは究極的には差別即平等であるから、存在は一存在として独立していながらも、他の存在と結びついて溶け合っているのである。独立することが差別であり、この溶け合っていることが平等というものである。そうして世界が大きな一円であるということは、全くもって、縁起の思想や一即一切、一切即一の華厳思想と密接な関連を持っている。
だから、ここでは「円融」という思想についてはあえて多くを語らないでおこうと思う。空の存在論を取るならば、どうしたってこういう話になるではないか、と言われてしまいかねない気がするからである。
また天台本覚思想というものがある。これについてもあまり説明したくないが、あまりにも重要な思想なのでここはしっかり説明しよう。
さて釈迦の涅槃を描いた「涅槃経」に、こういう言葉がある。
悉有仏性
仏性というのは仏になる資質のことである。全ての存在に仏になる資質が備わっているというとんでもない思想である。最澄流であると草や木にも仏性があるというところまでゆく。つまり草や木も仏になるのである。
そして、ついには人間は悟る前から仏なのであったということになる。つまりこのエッセイを今読まれているあなたも生まれた時から仏であるということである。しかし、鏡は曇るもの。いつの間にか煩悩の為に仏のである自覚を失ってしまっているのである。なんと残念なことか。
道元はこれに疑問を抱いた。最初から自分が仏であるなら修行をする意味などないではないか。これが道元を突き動かす。そうして道元はある公案にたどり着く。
両頭の蚯蚓
蚯蚓を二つに切り分けたらどちらの蚯蚓に仏性があるのか、という公案である。
そこには仏性のある蚯蚓と、仏性のない蚯蚓があるのではないかという解説を、梅原猛氏の著作で読んだことがある。だから筆者の解釈ではない。仏性のある蚯蚓を取るのならば、世俗の世界から宗教の世界へと足を踏み入れることである。しかし、道元が選択したのは仏性のない蚯蚓の道であったということらしい。
その為に道元は、涅槃経の漢文の読み方を独自のものに変えて、普通の読み順では「一切の衆生に仏性という素質があり、如来が変易することはない」という意味に読める文を「一切は衆生であり、全てのものは仏性である。如来は無であり有であって変易する」という意味の文にしてしまった。つくづく恐ろしい男である。思い通りに意味を変えるなんて、漢文をやったことのある人間からするとレ点付けの天才という気がする。
こうした解釈によって、仏性は仏になる素質ではなくなった。素質ではなくて全てが仏性なのである。草や木に仏性があるのではなくて、草や木そのものが仏性なのである。
また如来が変易することから、一度、本源の世界という宗教的な領域に足を踏み入れても、耐えず修行をして磨かなければ、また汚れてくるということでもあった。
なんで比叡山の話でここまで道元の話を書いているのだろうか。自分でもよく分からない。だが仏性とは重要なテーマである。これは仏になる素質だと言われてきた。しかし素質ないし種子という発想は、禅の世界においては駄目である。
以後、重要なポイントになってくるが、禅は目的論を拒むのである。目的があって何かをするのではなく、それ自体に価値があると見るのである。
また道元の話になってしまうが、道元がどこかの寺で熱心に昔の偉いお坊さんの伝記を読んでいる時のことである。先輩のお坊さんがやってきて、
「一体何をしている?」
と問うので、
「伝記を読んでいます」
と道元は答えた。
「ふむ。何の為にそんなことをしているのかね」
と先輩はさらに尋ねる。
「昔の偉い僧侶のしていたことを学ぶ為です」
と道元は答えた。
「ほほお、それが何になるのかね」
と先輩はまた尋ねるので、
「昔の偉い僧侶のしていたことを実践する為です」
と道元は答えた。
すると先輩はまたも尋ねる。
「ほほお、それで結局、それが何になるのかね」
このお坊さんは道元に本を読むことが良くないと伝えるよりも、もっと目的論の持つ不毛さを悟らせようとしたのである。人間は何でも目的の為に生きれば、結局行き着く地点はどこにも存在しないのである。そのものの価値というものはそのもの自体に備わるものでなければならぬ。
かくいう筆者も中学生の頃、生きる意味を考えすぎて大変に病んでいたが、目的論で考えていくと、ジレンマになってしまって、どうもたどり着ける場所が無いのである。それで生きる意味などこの宇宙にはどこにも無いのだ、という持論を持つようになった。ちなみに生きる意味とは生きる価値のことである。ところが存在の価値というものが、他の存在に依拠しなければ成り立たないというのであれば、初めからたどり着けるはずもなかったのだ。価値とはその存在そのもので成り立たなればならないのである。
だからこそ、仏性は種子であってはいけないのである。仏になる為の種子ではなく、その存在全てが仏性でなければならないのである。
しかし考えてみれば、目的の為に生きることが間違いであれば、仏になる為の修行というのは間違いである。仏になったところでどうなるというほどの話でもない。それよりも自分が仏であるからこそ、修行ができるのではないか。道元は修行であるところの坐禅に全てを捧げる。仏になる為ではなく、坐禅をする為に坐禅をしているのである。




