滋賀 比叡山1
★★
ついに比叡山である。色々何を書こうか考えていたが、ようやくまとまってきたので、比叡山延暦寺にかかることができそうである。
滋賀のお寺をめぐろうと思い立ったのは、大阪・和歌山のお寺めぐりをした次の月のことであった。和歌山の高野山の次は滋賀の比叡山である。そして三井寺、石山寺がその対象であった。さらに琵琶湖をまわりこんで湖北の観音めぐりと彦根城、信楽などにも赴こうとしていた。
記憶が曖昧なので日記を出してこよう。こんなこともあろうかと思ってちゃんと日記をつけていたのである。日記とは素晴らしいものだ。書いた直後に読み返すとまずつまらないが、何年もしてから読む返すと非常に興味深いものだ。こんなことを考えていたのかと思う。その時のことは覚えているつもりで読む返すと、大部分忘れていたことに気づかされる。
……なんだか読んでみると、悪口ばかりのひどい日記だが、おそらくこの時の僕は比叡山に納得できなかったのに違いない。「東塔も西塔も横川も広いだけでこれといった特徴がない」というような不満の羅列となっている。このようなことを言ったら比叡山の僧兵に殺されそうである。
とにかく坂本からのケーブルカーに乗って比叡山に登り、そこから山の中を歩きまわって、またバスも使って、東塔、西塔、横川の三箇所に分かれている伽藍を見物したのだった。高野山のような町ではなく、本当に山の中に伽藍が点在しているので、非常に疲れたのだろう。おまけに二月のことで寒かった。
でも素晴らしかったのは琵琶湖の眺めだった。「比叡山から見える琵琶湖は、朦朧とした柔らかい青色の光に包まれて無限に広がり溶けてゆく夢か幻のように見えた」と日記では大絶賛している。
この時の僕は、比叡山に不満を抱いたようであるが、東塔の根本中堂に入ると、その霊験あらたかな雰囲気に心を落ち着かせたようであった。また文殊楼に登って、大好きな文殊さまの真言を唱えたり、廃れているような法然堂、新しい仏像の阿弥陀堂、多くの仏像が並ぶ国宝館などを現物したのである。
西塔では釈迦堂があり、横川では清水寺風の建築を見た。横川には源氏物語に登場する横川の僧都を思い出す。恵心僧都、源信のことである。源信は「往生要集」を執筆して、浄土教を切り開いた人物だ。そこに描かれた地獄の恐ろしさ、そして極楽の美しさは強く人々の心に焼き付いて離れないものとなった。
最初に念仏を切り開いたのは三代目座主の円仁だと言われる。中国で流行していた六斎念仏に影響されたのか、こうして念仏行というものが比叡山に入ってきた。そして、源信が地獄と極楽を「往生要集」で結びつけ、そして後に法然が瞑想的な観想念仏に対して口で阿弥陀の名前を唱える口称念仏の地位を高めてゆく。
横川を歩いているとそんなことを色々思った。平安時代以降、日本仏教の中心はこの比叡山であったに違いない。ここから浄土教や禅の名僧が生まれたのである。比叡山はまるで仏教総合大学というように、あらゆる仏教思想を取り込んでいた。円教もやったし、禅もやったし、浄土教もやったし、密教もやった。題目も念仏も両方唱えるのだった。そうしてまず比叡山で学んでから、皆、独自の宗派を開くなどしていったという点からは、まさに仏教総合大学だったと言わねばならない。
色々多くのことを思いながら、比叡山を歩く。伝教大師最澄のことを思う。最澄はまず徳一と議論を戦わせた。徳一は法相宗の僧侶で福島県会津若松周辺にゆかりの寺がいくつもある。
徳一が法華経の一乗思想を批判し、三乗思想を推したのに対し、最澄は法華経の一乗思想を宣言したのが論争の元であった。
仏教には声聞乗・縁覚乗・菩薩乗という三種類の悟りに到達する為の乗り物があるとしていた。声聞とは釈迦の教えを聞いて悟ろうとするもののことであり、縁覚とは一人で修行をして独学で悟ろうとするもののことであり、菩薩とは菩薩行をして悟ろうとするもののことである。例えば、釈迦の弟子たちは羅漢と言うが、彼らは声聞なのであろう。
大乗仏教では、はじめ菩薩乗以外の者は仏になることができないとしていた。ちなみに菩薩乗を大きな乗り物に例えて、ここから大乗仏教という言葉が生まれた。大乗仏教徒は、声聞乗・縁覚乗を小さな乗り物として、こうした仏教を小乗仏教と揶揄したのである。
これに対して、法華経では「三車火宅」の比喩を使い、三つの内どの道を通ってもたどり着ける境地は一つであるものとした。これが一乗思想である。
法華経にある「三車火宅」とはこのようなものである。燃え盛る家の中で三人の幼い無知な子供だけが残ってしまった。子供たちは家が燃え盛っていることも知らず、遊びに夢中になって、逃げようともしない。そこで主人が無理に引き出そうとしたが、入口は狭い為、とても外に出すことはできそうもない。そこで「この家は燃えているよ、外に出ておいで」と伝えても、子供たちは無知であるから恐怖を抱くことすらなかった。
そこで主人はある巧妙な手段(これを方便という)を使って、外に引き出すことにした。「外にお前たちが日頃から欲している牛の車、山羊の車、鹿の車を用意しているよ。さあ、取りに出ておいで」と主人が言ったのである。子供たちは欲しかった車が貰えると喜んで外に駆け出してきた。そして主人は三人の子供にそれぞれ最も優れた牛の車をプレゼントしたのである。
さて燃え盛る家とはこの娑婆世界のことである。煩悩にまみれ、苦悩に溢れたこの世のことである。そして三人の子供とは我々のことである。ここから無理に脱出しようとしたところで、できるものではない。それどころか我々は無知であるから、その危険が近づいていることすら実感がないのである。
我々を誘い出そうとして示された三つの乗り物とは声聞乗・縁覚乗・菩薩乗のことである。三人の子供は欲している乗り物が異なるのである。外に出て得られる乗り物が例え牛の車一つであろうとも、我々を火宅から脱出させる為には、仏は我々が日頃から欲している乗り物が外にあると言わねばならない。これが方便というものである。
彼らが外に出てきて得たのは、結局は最も速い牛の車であった。これはこの場合、大乗仏教であるから菩薩乗のことである。つまり声聞・縁覚・菩薩の三種類のどの乗り物に乗ってもたどり着ける境地はただ一つだと言うのである。
これによって声聞・縁覚とまた悟れる存在となったのである。これが最澄が感銘を受けた一乗思想であった。
空海が最澄を一歩リードして時代を突き進んだようにも思えるが、私は最澄の求めていたものに何か親しみを感じる。彼は分裂する仏教思想が今は道は違えども最終的には一つの巨大な真理へと突き進んでいくように思っていたのだろう。だから声聞とか縁覚とか、そういう差別はしたくなかったのに違いない。また密教も同じものと考えていたのだろう。
空海は仏教を縦に積み重なる発展的なものと捉えて、高度なものへと突き進んだ先に密教があると考えたのだろう。しかし最澄は思想の分裂を横に見ていた。そして、それは枝分かれした無数の道であって、その道の目的地は結局は一つのものなのだと捉えていたのであろう。そうして、そのいくつもの道を多く知ることが大切だと考えたのだろう。彼は多くの道を天台宗という大きなゆりかごの中に取り込んで行ったのである。