東京 回向院
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変なサブタイトルが付いたな、と思った方がいるかもしれないのでこの場で説明しよう。サブタイトルの実験中である。どうもサブタイトルがないと再生数の伸びが悪いので、今さっき「全国のお寺を旅しながら仏教についてあれこれ考えてみた」というサブタイトルを付けた。おそらく、このサブタイトルは最終的に完結した時には外されることだろう。
しかし、そもそも再生数を気にしてサブタイトルを付けたり外したりするのは、まさに煩悩というものだろう。もっと多くの読者に読んでもらいたい、という気持ちのあまり、こんなことをしてしまうのだ。しかし、まあ、その気の焦りが「小説家になろう」の執筆の醍醐味なのかもしれない。
高校時代、文芸部で小説を書いて、冊子にして、文化祭で売りさばいていた頃は、書いてしまったらもう後は良かろうが悪かろうが関係なかった。「売りっぱなし」だったのである。だから再生数やタイトルで気を揉むことはなかった。
文芸部の部員は十二人であり、男女比は大分女子が多かったが、男もまあまあいた。そんな中でどういう訳か僕は部長だった。のんびりした適当な部長だったもので部員には色々迷惑をかけたものだ。僕は働かない部長の最たるものだった。ところがこれはこれで僕の作戦だったのである。
先代の部長は偉かった。ところが偉いあまり自分で何でも仕事を済ませてしまうのだ。部長に原稿を提出すれば、文化祭当日に冊子も製本して持ってきてくれるのだった。大変良い部長だったのだが、そのせいで後輩には仕事がひとつも降りてこなかったものだ。結果、部員でミーティングをする必要も無く、ほとんど部員同士の交流もなく一年が終わった。
そんなことだったから、僕が文芸部の部長となった時には、こういう部活の部長はとにかく緩く、仕事をしない方が後輩は楽しくて良いのだ、と思った。事実その通りになった。暇な部活でろくな仕事もないはずなのに、部長が率先して働かないので、その度にいちいち仕事が生まれた。実に下らないことを取り決めるのにもミーティングをする羽目になった。部長が判断を部員に丸投げしていので、上手い具合に文芸部は民主主義になった。多数決が民主主義かは甚だ疑問だが、どんな下らないことでもミーティングに多数決で決めることになった。
前年まで文芸部の活動は、文化祭での冊子の販売しかなかったので、部長に就任した以上は活動を増やすことにした。定期的なミーティングと歌詠み会とリレー小説をすることを企画したのは実に良かった。だが何よりも部長の職務とは気性の激しい顧問と交渉をすることだった。どう交渉するか。そのポイントが短歌だった。顧問は短歌が好きだったのだ。だから顧問念願の短歌の歌会を実施すれば、上手いことこちらの要求が通るようになるのだった。
しかしあえて言おう。文芸部は短歌の部活ではない。いや部員が短歌が好きでも一向に構わないのだが、現実に人前で自作の短歌の読み上げるだけのメンバーが揃っていないのである。しかしそうは言っても顧問は念願の歌会とあって楽しみにしている。お願いだ。メンバーよ。集まれ!
そしたら見事に五人ほど集まり、どうにか会として成り立ちそうだったのでほっと胸を撫で下ろした。こういう気性の荒い顧問だったからこそ緩い部長は喜ばれたようだった。リレー小説のノートは途中でどっかにいったが、それはまあどうでも良いだろう。また文化祭では、冊子を百冊ほど作ったところ、宣伝活動のおかげで完売できたのが嬉しかった。ちなみに前年までは数冊しか売れなかったのである。顧問は文化祭中はご機嫌斜めで度々生徒を捕まえて怒鳴っていたが、この成果には大満足らしかった。
いきなりまったく関係のない話をしてしまった。申し訳ない限りである。今まで述べた話はすっかり忘れて頂いて、両国の回向院の話をしよう。
両国の回向院は江戸時代に勧進相撲の聖地だったのだ。さらに様々な地方のお寺にあるいわれのある仏像を江戸に招いて、お寺に小屋を作って開帳する、いわゆる出開帳の聖地なのでもある。筆者は卒業論文のテーマが「開帳」なのでこういうことはやけに詳しい……なんていうのは自画自賛というものである。見世物小屋や茶店などが立ち並び、大変賑わったものだろう。
今、回向院に訪れるとずいぶん変わってしまって当時の趣きはない。ただ鼠小僧の墓石があるのだけが変わっている。
筆者は両国の相撲を直に見たことがない。見てみたいとは思うけれど、ついに縁が無く、今日に至ってしまった。それでも今回、両国の話を書きたいと思ったのは、歴史が好きになったきっかけとして両国にある江戸東京博物館の存在があったからである。
筆者は子供の頃、親に連れられてこの江戸東京博物館に度々訪れた。館中には日本橋の再現があって、江戸を再現してある。大変、面白いビジュアル展示の博物館だった。小さい頃、よく見物したミニチュアの四谷怪談のからくり実演は面白かった。
筆者が学校で近世を専攻することになったのは、単純に教授との相性だったとも思うが、この時どうしてだろうか、江戸文化というのが鮮やかに感じられたのだった。幕末が好きな人間なら当然近世を専攻して間違いはないのだが、筆者にはこの時別に「幕末の動乱だぜ、いえーい!」というノリはなかった。ただ江戸文化というものへと憧れがあった。元をたどればこの博物館なのかもしれない。