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神奈川 江島神社

★★

 今回は宗教と性の関係性が話題となるので、苦手な方は次の回にお進みください。



 江ノ島というのは藤沢にあるひどくエキセントリックな島だが、その江ノ島には江島神社という神社があり、そこには弁天さまが祀られている。ここの弁天さまには裸弁天という一糸まとわぬ弁天像であり、そうしたところもひどく風変わりなのである。

 昔から「弁天さま」というとべっぴんさんという意味でも使われるのだが、私は会ったことがないので弁天さまがどんな美人かは知らない。財宝神ということで、弁才天はいつしか弁財天と書くようになったと言われる。



 弁天さまを祀るお寺や神社はどういう訳が知らないが、弁天窟というような洞窟がある場合が多く、この江島神社にも島の裏側に大きな洞窟がある。

 江戸時代にも江戸の庶民がこの江ノ島弁天によく訪れた。江ノ島弁天の開帳というと、大変な人気を博したものらしい。ところがまあ江戸の庶民というのは昔から信心深かったというかというとそうでもなく、道中飲み食いしたり、果ては宿場町で女郎を買うのが目的だったものらしい。こういう宿場町の女郎を飯盛女と言った。そういうと江戸の庶民はかえって不信心ではないか、という気もしてくる。これは実際、貧困問題との関わりもあって、大変にネガティヴな問題なのであって、江戸が抱えていた深刻な社会問題であった。



 ところで、これは健全な信仰ではないのであるが、信仰にセクシャルな要素が潜んでいるというのは大方の健全な信者の期待を裏切り事実であると思う。ネガティヴなものは良くないとしても、宗教のセクシャルな要素にはポジティブなものもある。それどころか、そうしたセクシャルな要素が強調されるあまり左道密教のようなとんでもない思想を持つものまで出てきたほどであった。ちなみに筆者はまったく禁欲主義者ではないが、と言って左道密教のような快楽主義に傾倒している訳でもない。

 そもそも神道にせよ、仏教にせよ、男女の交わりが子供を産み落とす、という自然の摂理には重要な価値があるものである。神道において、イザナギとイザナミが交わらなければ日本列島は産まれなかったのである。また日本の原始的な信仰においては、種の繁栄を願うこと、また五穀豊穣との関連もあったのだろう、石棒や土偶にはセクシャルな要素があったと思う。

 また、密教は悟りのシステムを、胎児である衆生が胎盤から悟りの境地に産み落とされるようになぞらえたのである。そこには前提として父性と母性というものがあるのである。胎蔵界曼荼羅の胎蔵とはこのような意味である。

 密教の「金剛頂経」がいきなり性欲とは清らかなものであるという話から始まるのは方便だと解説されるが、実際にそれらの行為を不道徳と禁止し続ければ、我々は自然の摂理に反して絶滅するのみである。

 この点において、自然の摂理に反するような禁欲主義は了解できない。しかし仏教が真意から離れて道徳的なものになるに及んで、仏教は禁欲主義化することとなったのである。このようにして、禁欲主義は仏教の教義と考えられるようになっていったのであり、このようなところから煩悩=性欲とするものが出てきたことだろう。

 しかし、こうした仏教の矛盾を見抜いて、鋭く皮肉ったのは一休(いっきゅう)禅師である。一休は、禅の真理を悟り、もはや仏教そのものすらも捨てられるほどの自由なる精神であったことだろう。出家という形式が仏教の本質ではないように、自由とは一宗教の教義、体制に囚われることによって失われる。それよりも自己を縛することから自由になるには、宗教家としてはタブーであるとしても、仏教そのものすら捨て去ることのできる自由精神によらねばならない。それは教団の論理や、禁欲主義、過去のものとなった教義からの完全な解放である。

 一休はその意味において、真に禅的であった。彼は仏教を捨て去ることができたからこそ、仏教の本質であることができたのである。

 仏教が抱える禁欲主義の問題は、親鸞上人のような点からも批判できる。親鸞上人が抱えていた煩悩とは自己の性欲のことであった。親鸞上人は大変に性欲の盛んな方であった為、自己を悪人と自覚したのである。こうして欲望の深い人を救う存在として阿弥陀仏を信仰したのである。こうした時、性欲は悪でありながら高次に肯定されているのである。

 結局、彼は恵信尼と愛し合い、一休は森侍者と愛し合った。ちなみに繰り返すようだが、筆者は快楽主義者ではない。過剰な禁欲主義を正義とすることは了解しないというだけである。性欲はそれ自体は正義でも悪でもなく、愛にも欲望にもなり得るのだと思う。筆者がこのような問題をあえて述べたのは、過剰に道徳的・禁欲的である為に、多くのマイノリティーが行き場を失う傾向があるからである。

 ただ、誰かが不幸になるようなことは良くないと思う。



 この江島神社の参道には様々な飯屋が並び、大変に賑やかである。私はその中の一つに入り、生しらす丼を食べた。サービスでご飯としらすを大盛りにしてくれた。外の天気が荒れてきているので、今日はもう船を出せないとかなんとか。とにかく、朝獲れた新鮮な生しらすをたっぷりのせた生しらす丼を作ってくれた。生しらすはしらすの味とイクラのような旨味と塩味が混ざり合って溢れ出しており、大変美味しかった。

 また鎌倉・藤沢に訪れたら間違いなく生しらす丼を食べるだろう。

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