京都 平等院
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わたしが、はじめて宇治の平等院に訪れたのは、東寺に訪れる前日のことだった。わたしはこの頃、極楽浄土などにはまるで関心がなかった。死んだ後のことなぞ、若い自分にとってはまったくどこを吹く風であった。何を柱として生きてゆくか、ということばかりがわたしにとっては重大問題であった。
そもそも、釈迦牟尼の入滅後に仏教の力が五百年単位で失われ、千五百年で完全に失われるという、末法思想というものが、この日本にひろまってから、もうすぐ千年にもなろうというので、あまり身近な思想という感じがしなかった。
末法元年は1052年と記憶している。欽明朝に仏教が伝来されたのは、紀元538年とも紀元552年とも言われるが、紀元552年というのはどうもこの末法元年の1052年の五百年前ということで、逆算されて設定された可能性が高いとかどうとか、誰かが教室で力説を説いていた。
後で考えてみると、いつでも自分の立つ現時点が末法であるという思想もあるが、それは少しばかり、禅的な発想である気がした。何をともあれ、浄土教にとっては末法元年が1052年ということが、きわめて重要とされている印象を受けていた。
1052年といえば、平安時代である。藤原道長の息子の頼道の時代といったところだろうか。
それよりも五十年ほど早く、天台宗の僧侶、源信つまり恵心僧都は、自著『往生要集』の中で、極楽と地獄という思想を合体させた。ここにきて、それまでまったく別なものであった、六道輪廻の地獄道と、阿弥陀如来の極楽浄土という思想が、キリスト教における天国と地獄と同じ関係性で結ばれることとなったのだ。
地獄というものが、恐ろしいものとして、ここまで意識されるようになったのは、源信の『往生要集』の影響だろう。源信の思想では、人間は地獄に堕ちるのが当然であり、極楽にたどり着くのは極めて困難なのである。
そうしてみると、後に浄土教の法然、親鸞、一遍はこれをひっくり返していったことになる。つまり、みな極楽にゆけて当然なのだと。こういうことは、思想が生命のように育ってゆくということなのだろう。
この頃から、比叡山の仏教は早くも堕落していて、また末法の不安から、三メートルぐらいの仏像、丈六仏がせっせとつくられた。
そういう時代に、天才仏師の定朝は、丸々としたお月さまのように円満な仏像をつくって、後の世に定朝様というスタイルを流行させた。
定朝の代表作は、道長の建立した最大級の寺院であった法成寺の大日如来であった。道長はこの寺で、九体の阿弥陀如来像から、五色の紐を引っ張ってきて手に握って、北枕で念仏を唱えながら往生していったという。この寺は焼失してしまって、数多くの定朝の仏像は失われた。
定朝の作品はいまや、平等院の阿弥陀如来座像しか残っていないのだった。
貴族たちは、どのような極楽を思い描いていたのか。わたしは平等院鳳凰堂の中へと足を踏み入れた。
その阿弥陀如来は月のように美しく、柔らかな印象であった。どこまでも絶妙な印象の仏さまだった。
わたしはこの阿弥陀如来像がどんな仏像よりも好きだ。何度見ても、わたしはこの阿弥陀さんが一番良かった。
わたしはその後、博物館である鳳翔館に行って、そこでこの鳳凰堂の内部が極彩色であったことを知って、極楽浄土のイメージが、黒地に金色だった来迎図の印象から、ずいぶん派手なものに塗り替えられた。
ただ、わたしは宇治に訪れたら、源氏物語ミュージアムに行こうと思っていたのと、絶対に抹茶のスイーツを食べようと思っていたので、鳳翔館から出る時には、そのふたつのことで頭が一杯だった。