神奈川 高徳院
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まだ京都にも奈良にも訪れたことのなかった時分、最初に訪れたのは東京周辺の寺社と鎌倉だった。その頃、坂東三十三観音めぐりをしようと思い立ったのが寺社巡りの始まりだった。ちなみに坂東というのは関東のことである。ところが坂東三十三観音巡りというのは予想外に大変で、電車やバスを駆使してもとても達成できるものではないと知った。つまり北関東から神奈川、千葉の房総半島に渡り、三十三ヶ寺が点在している為、非常に時間とお金がかかったのである。そして、これは不信心な話であるが、完全に廃れている寺は無いにしても、観光的では無い小規模で地味なお寺も大変多いのでだんだん諦めムードになっていった。そうした関東の寺めぐりは、東京周辺では高尾山などの特異な例を除いてそんなに満足できなかったので、早いところ鎌倉に行ってみたいものと思っていた。
その頃はまだあまり遠出したこともなくて、鎌倉に日帰りをしただけでも、ひどく遠い場所に赴いたように感じられて新鮮だった。
その為、北鎌倉の駅のホームに初めて降りた時に感じた喜びは今でも忘れられない。京都や山形の時もそうだが、いつだってこの「初めてその地を踏みしめた時に感じる感動」は最高だと思う。だがそれも何回も訪れる内に消えていって、ついに何も感じなくなった時にはひどく寂しいものだ。
一度目の鎌倉散策では円覚寺、建長寺、鶴岡八幡宮を見て、海岸の方へと歩いてゆき、日が沈むのを見て帰宅した。その時には特に円覚寺が素晴らしく感じられた。
二度目に訪れた時は坂東三十三観音のお寺と、鎌倉の長谷寺、そして鎌倉大仏(高徳院)に訪れた。
三度目には藤沢の方まで江ノ電に乗り、江の島に橋で渡って、江島神社を参拝した。後で書くことになるかもしれないが、江ノ島もなかなか面白いところだった。何しろこの辺りを訪れると生しらす丼が美味しいのである。
鎌倉・藤沢で最も楽しめる寺社は何か、と言えば、やはりこの鎌倉大仏(高徳院)と江島神社だろう。それと鎌倉大仏からほど近くにある長谷寺もなかなか良い。この長谷寺は奈良の長谷寺と同じく巨大な十一面観音が御本尊なのであるが、奈良の長谷寺と同じ木から作られているという話がある。本当かどうか分からぬがそうなのだというのだからそうなのである。
鎌倉大仏が特に良いというのは、こういうわけである。奈良の大仏にしたって、顔は江戸時代のものなのである。それが鎌倉大仏は全体が鎌倉時代の時のものであり、美術的にも文化財的にも優れた仏像なのである。
美術的に優れた仏像はどれかなんて言うと、すぐに怒る住職さんもいるが、宗教が美を求めるのは必然的なことのように思える。
鎌倉時代の仏像というのは実に写実的である。例えば金剛力士の隆々たる筋肉、そこに浮き出る血管、握りこぶしの指の一本一本まで生々しく、まるで生きているかのようである。また如来像となると端正で実にリアルである。
奈良時代の仏像も写実的ではあるが、そこには鎌倉時代の仏像のような生々しいリアリズムよりも宗教的理想が先行しているように感じる。つまり仏としての神々しさがその僅かな抽象性の中に光り輝くようである。それは決して人間ではない超越的な造形である。
それに比べると鎌倉時代の仏像というのは、少しばかり人間臭すぎるようにも感じられてくる。その水晶の玉眼はまるで人間のような泥臭さが溢れている。
そういう訳で、私はこの鎌倉大仏に仏教の宗教的な理想を感じた訳ではないが、その写実的な造形、全体の迫力のあるどっしりとした重厚な体型が素晴らしく感じ、そして何よりそのどこか猫を思わせる凛としたお顔が大変麗しく見えたのであった。
鎌倉大仏は日本中の大仏の中で、奈良の大仏を抜いて一番だと思う。こんなことを言うと、東大寺派の人々に叱られるかもしれないが、それでも鎌倉大仏が一番だと思う。




