栃木 日光東照宮
★★★
日光東照宮の話を書いているつもりなのだが、もしかしたら、転じて輪王寺の話になってしまうかもしれない。とにかくこれは何年か前に、ある栃木の友人と訪れた寺めぐりであるが、これも風変わりな旅の思い出だった。
そういう訳で、今回はさらっとであるが、日光東照宮の美しい工芸的な美について語りたい。その前に、まず「日光」という地名は観音浄土である「補陀洛山」に由来する。ここから転じて「二荒山」そしてさらにこれを音読みして「ニコウサン」そして「日光山」となった。つまりここは元々、観音の浄土だったのである。
そんなことはともかくとして、日光山は他の霊山に負けずとも劣らず、杉の大木が天に向かって伸びていて、実に空気が良いところであった。おまけに少し小雨が降っていたせいで、霧などかかってしまって尋常ならざる雰囲気を醸し出していた。
あの豪華絢爛な日光東照宮を見た時、その工芸的な装飾というものが、まさに日本美術の極致という気がするほど綺麗に感じられた。それは美意識としては、単なる「綺麗」であって、禅文化の「侘び寂び」や浮世絵の「洒脱さ」のような複雑な美的感覚ではなく、誰もが容易に感じられるストレートな美的感覚としての「綺麗」であったように思う。
この時は、日光東照宮のこうした装飾美というものが、京都の禅寺の枯山水や銀閣寺の「侘び寂び」と言った美的感覚と比べて、どちらが日本的な美かという美術的な問題をあらためて考えさせられた。
長らく和風とは、禅的な「侘び寂び」の世界のことを言うものであった。ところが、しばらく前から日本の美とはもっと派手なものではないか、という声が出てきていた。確かに禅の流入する以前には、密教的な荘厳や原色の曼荼羅があったし、もっとしなやかな寝殿造の建築物などに代表される貴族文化もあったことだし、戦国時代の武具は目立つものも多いし、江戸時代の浮世絵には真っ赤な色が使用されていて大変洒脱だったりもする。日本中の祭りには派手であるし、色彩豊かなものも多い。「侘び寂び」が無装飾美とするなら、日本の美術史の大部分は反対の装飾美の世界だったとも思えるのだ。
それは明治、大正、昭和という時代に外国に対する日本、つまり対外的な日本というものが意識されてゆく中で、外国人が率先して禅文化を日本文化の代表として宣伝したからであった。
それでは禅文化の「侘び寂び」とは何だ、と言われれば、あれば中国趣味なのだ、と答えることもできるだろう。確かに禅とはインドから訪れた達磨を始祖とするが、そうは言っても中国の南方で育ったものであったから、中国的と言っても差し支えないだろう。そうした中国趣味にはまた豪華なものと質素なものとがあって、質素なものの中に禅文化というものが含まれることだろう。東山文化は和風というが、室町時代というのは中国のものを取り入れることがステータスだったのだから。
しかし中国趣味とは言え、日本人の中国趣味ということになればそれは日本人の趣味なので、これも「日本的・和風」と言えるのではないか。第一、このような時、外来文化というのは理解しやすいが、外来文化に対する在来文化というものは途端に理解が困難になるのである。というのは、在来文化というものはほとんど、時代を少しばかり遡ると元はいずれかの国から流入した外来文化だったに違いないのだから。
そうすると外来文化を日本的ではないという意味で外してゆき、日本人の根源的な美的感覚とは何かと考えると、縄文土器の様式にまで立ち還れらなくてはならなくなる。確かに縄文土器や土偶は装飾的ではあるが、あの様式を誰が「和風・日本的」だと評価するだろうか。またその他の無数の文化を外来文化であったとして、日本文化ではないと断定することができるだろうか。
結局、文化というものの日本的、外国的という評価はその土地に流入する瞬間からしばらくの期間しか問題とならないのであり、その文化が日本列島の住民に馴染んだ瞬間から、日本文化という名称を使って誤りはないはずである。
それではそもそも「日本」という言葉は一体何なのだ。日本列島という意味以外に意味はないと思うが、もし日本民族という言葉を使うのであれば、それはどのような民族のことを言っているのだろうか。いや「日本民族」という言葉は様々な人種がこの土地に流入する中では、我々が固執すべきものではないのではないかと思うのである。もはや日本という概念は、この日本列島という地理を残しては、もはや他に根拠がないのではないだろうか。
また私が考えたのは、我々が何の気なしに「和風・日本的」と語った時には、その多くの場合、江戸時代の文化を無意識に想定しているのではないだろうかということであふ。カレーライスは感覚的には「和風・日本的」とは思わないけれど、事実はもはやインドやイギリスのカレーライスとは大分違って日本文化となっているのである。それでも我々はそれを「和風・日本的」とは思わないのは、単純に江戸時代っぽくないからである。蕎麦は「和風・日本的」に思える。それは江戸時代っぽいからである。これは何故かと考えると、和風・洋風という線引きが最も成されたのが明治時代だったからではないだろうか。そうすると、江戸時代の国土から言って、沖縄や北海道の優れたる文化は我々の観念の中で無意識的に「和風・日本的」から除外してはいないだろうか。もしそうだとしたら、これは大変な時代錯誤ではないか。何故なら我々が常に現在を生きている以上は、江戸時代や明治の感覚に立って「和風・日本的」を線引きしなくても良いはずであるから。
またもう一つの問題としては、文化というものは物質的な制約と精神的な選択というものに分けて考えなければならないだろう。物質的な制約というものは、日本列島から産出される物質によって、多くの制約を受けざるを得なく、またそのことから独自性を持つことができるのだ。これは民族の問題、思想の問題を飛び越えて、もっと根本的なところに立ち返ることができる。
例えば、日本文化とは「木」の文化だというのもその例である。日本で木造建築が発展したのは、まず木の素材が良く、石の素材が悪かったからである。こういう論法から日本には彫りの細かい木彫仏像が存在する一方で、大陸のような彫りの細かい石仏は存在しないということになる。対して、大陸は「石」の文化であり、石造りの建築が発展し、石仏が流入したということである。
こうしたことは精神という曖昧なものよりも確実に根源的な意識に近いのであって、はじめには神も仏もなく、木があったということにもなるのである。つまり我々はどうかすると精神が先行するのではなくて、物質的な事情が先行して文化を生み出すのである。そうすると、木造建築が建ってから我々は木を愛するようになったのあって、美意識はさらにその後に発生してくるということにもなるではないか。
しかし反対に、精神的な選択という観点でゆくとこのような断定は難しい。そうした物質的な制約ではなく、我々がはじめに何らかの精神的なものを持っていて、それが意図的に石ではなく木を選び出したという話になる。しかし、要するにここまで根源的な問題に立ち戻ると、我々は日本人の根源的な精神に気づかせるのではなくて、日本列島は木に恵まれていたというあまりにも味気ない事実にたどり着くのかもしれないということである。こうしてみると、純粋なる日本精神などというものに固執するのをあきらめるべきだと気づかされるのである。
しかし、あえてそのことを問題するとならば、物質的な制約、精神的な選択、そのどちらが先行するかということは、物質と精神という二元論で論じている限りは永久に結論は出ないのであって、結局はこれは自然を物質と精神というものに二分したものに過ぎないのである。そして、この自然とは人類・人工に対する自然ではなく、全てのものを含んだ自然である。そうして、自然の中に物質と精神とが混ざり合って、どちらが先行することもなかったはずである。
そこで、あらためて疑問となるのは日本とは何かという問題。日本民族という言葉にとらわれてはまったく論理が進まなくなるのである。
日本の精神とは、日本民族の精神のことだろうか。しかし日本民族とは何のことだろうか。大日本帝国という国家が成立する以前には、このことがあまり明確ではなかったし、江戸時代以前の多くの時代においては、関西を中心とする意識があったのであり、平安時代など関東、東北、北海道、沖縄はまさしく外国のような感覚ではなかったか。そうすると関西の文化と、関東、東北、北海道、沖縄の文化は違いがあるのであって、真に日本文化というものはより関西的なものであるということにはなりはしないだろうか。それはそうだろう、と一部の人は納得できることだろう。しかし関東、東北、北海道、沖縄などの人々にとって、そのような日本像は納得できないのである。
もし平安時代を論じるのがナンセンスだというのなら、明治を論じることもナンセンスと言わねばならない。どちらにしても現在感覚ではないのである。だからこそ、我々は日本という概念をまず根底から疑わねばならない。日本文化とは日本列島で形成された全ての文化を言わねばならない。
だからこそ今、日本という言葉はあえていらないのである。また日本文化を輸出するという言葉ももはやありはしない。世界は国家的な在来文化、外来文化という枠組みを越えて混沌としていて、国家単位の文化コミュニティーを形成してはいない。そして、さらに文化とは自然に対する人工を意味する文化であるが、人間の精神、生命活動は他の動植物の活動と何ら異なるものではなく、それらは実際には二元的に分けられないほどに相互依存している。我々が自然と文化と分けて言った時、すでにそれは実際的ではなくなっているのである。
それでは、我々が今、抱えるマンガ・アニメ・ゲームは日本文化ではなく、まして自然の活動から離脱した文化活動とも言うことができないとしたら、どういう文化だということができるだろうか。またこれが日本文化という概念を飛び越えたものなのだとしたら、我々は一体、何者であり、何に誇りを持って、何に対して、何を発信しているのだろうか。




