京都 東本願寺
★★★★
今回をもって、本エッセイは二度目の休載期間に入りたいと思う。そして二度目の休載の後には、いよいよ本格的に禅の解説に入りたいと思う。勿論、華厳と天台という中国仏教の二大思想の解説もしてゆきたい。
ただ今回は、東本願寺の回ということで、まず前回の高野山の中でも私が重要だと述べた「悪人の自覚」について詳しく述べてゆきたい。
前提として、無分別空の大乗仏教には今日一般に言われるような正義も悪も存在しない。そうした倫理的な概念の二元的対立はあり得ないのである。したがって、この場合の「悪人」とは煩悩にまみれた衆生のことである。そして、この煩悩にまみれた衆生であるところの自己を否定している訳ではない。つまりは原罪的な自己否定の論理ではないのである。それでは「悪人の自覚」とは煩悩の全面的な肯定なのだろうか。それも違う。
それよりもこの問題は、完全に肯定対否定の議論を離れている。むしろ肯定即否定の論理に立った時「悪人の自覚」の真意が見えてくるのである。
この時、自己が煩悩にまみれた悪人であるというのは、一面においては否定である。しかし自己を否定することによって、自己に対する阿弥陀が肯定される。この時、自己を否定しきることによって完全なる無に帰る。そして無になった自己こそが阿弥陀と一体となるのである。ここに来て、自己の煩悩が高次に肯定されるのである。
であるから、一般に考えられているような「悪人の自覚」が自己を否定しているだとか、悪を肯定しているだとかいう事実はまったくもってないのである。ただ自己の煩悩を自覚するということである。それによって、そこに煩悩即菩提が認識される。
またこの煩悩即菩提を、性欲などの欲望に耽ることによって悟りが開かれるという解釈がまかり通っているが、完全な誤解である。このような左道密教的な解釈はあまり一般的ではない。
親鸞上人は、自己の煩悩が深く、自力の修行によって悟りを開けるような人間ではないという「悪人の自覚」を持ち、自分のような凡夫は、阿弥陀の慈悲にすがることによってのみ救われるという思想を持ったのである。
このようにして、親鸞上人は自力を捨て、他力にすがる道を選んだ。
念仏を多く唱えればどんな悪人でも極楽に往生できると説いた法然上人の念仏は、まだまだ自力の要素があった。親鸞上人は阿弥陀を信ずれば誰でも極楽に往生できるとして、念仏とは感謝の念仏であるとした。これは画期的な他力の仏教であった。
ところが一遍上人の念仏はもっと禅的である。浄土教が究極的に高められた時には、そこには自力も他力もないのだという。ここにこそ、大乗仏教本来の思想が入ってきていると思う。やはり、自力と他力という風に二つに分けて考えることは誤った認識なのである。
念仏をしている時には自力でも他力でもないのである。あるいは、自力でもあり同時に他力であるのかもしれない。どちらにしても、二つを分かつことはできない。
一遍上人の歌にこのようなものがある。
称ふれば 仏も吾もなかりけり
南無阿弥陀仏の 声ばかりして
ところが、宝燈国師はこれは悟りの境地ではないとして、受け取らなかった。
そこで、一遍上人が直した歌が次のものである。
称ふれば 仏も吾もなかりけり
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
念仏とはこのように、自力でも他力でもなく、そこには自己も、阿弥陀も存在しない。ただ南無阿弥陀仏と称えることなのである。その念仏ばかりが実有である。念仏を称えているその時には、他でもない自分自身が阿弥陀なのである。




