和歌山 高野山4
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そもそも仏教とはどのようなものなのか、目標はあるのかと問われたら、密教の経典である『大日経』の中で、大日如来はこのように答えている。
菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟となす
これが真言密教の基本の立場である。菩提心すなわち悟りを求める心を原因として、大いなる慈悲を根本として、実践的活動を究極とするのである。
悟りを求める心は取りも直さず悟りの心であるとされる。これは、ものの始まりがすなわちものの終わりであるとする華厳思想に基づく。
一切が空であれば、ありとあらゆる存在を分別することがない。だとしたら存在の消滅は別の存在の生起を意味し、その存在の違いがない以上は、両者に生起も消滅も起こり得ないのである。このようにして、時間において何かが始まりそして終わるということはあり得ないのである。
ところが、この場合の菩提心は人間の煩悩の心と如来の菩提の心の入り混じった心を指すとも言われる。ある意味では、始まりの心が即ち煩悩の心であり、到達すべき心が即ち菩提の心となり、これ即ち煩悩即菩提の心であるとも言える。
また菩提自体には、菩提を求める働きがあり、これを菩提心(菩提を求める心)と称するが為に、菩提即菩提心と言う。
大悲を根本とするのは、それが仏教の本願だからである。衆生を救済せんとする心、これこそ仏教の最終目標ではないか。慈悲が根本であると同時に最終目標でなくて、仏教に活きる道などあろうか。慈悲がなくては、その先の利他行もないのである。
空を悟った境地に立ち止まれば、それは所詮は自利(自己への利益)というものである。しかし、人間は慈悲の発芽をもって、利他(他人への利益)に進まねば成らぬのである。慈悲の衝動が湧き上がるのを体感して、なお自利に留まることなど出来ようか。これは悟った直後の釈迦に梵天が布教を勧めたのと同じ理屈である。これを梵天勧請という。
しかし考えねばならぬのば、こうした利他的精神というのは、多分に偽善や独善に陥る危険性を孕んでいるということである。
方便を究竟となす、というのは、方便とは実践的活動を意味し、これを究極とするということである。密教は現世主義であり、その教えの実践的活動をもって究極とするものである。これはすなわち利他行である。他人に利益のあるように自ら活動することであり、社会的な救済活動のことである。
そして、大日如来はもう一度、菩提心とは何かと尋ねられる。大日如来はこのように答える。
ありのままに自らの心を知ること
そして、このありのままに自らの心を知ることとは、自心の空性を知ることである。
そして心はまさに虚空(大空)のようであるという。大空は空性を表現するのに最も適切だと言えるだろう。大空は限りなく広がり、終わりがなく、また絶えず移ろい変わり留まることを知らず、始まりもなければ終わりもない。存在するとも言えるし、存在しないとも言える。まさにとらえどころもなく雄大なのである。
さらに悟りとはなんぞと問われれば、五智という五種類の智慧を紹介できるだろう。
まず大円鏡智、大きな鏡に全てのものがありのままに映るような智慧である。これは空の認識であると思われる。阿閦如来の智慧である。
次に平等性智、この世のありとあらゆる存在の平等性・普遍性を如実に認識する智慧である。宝生如来の智慧である。
次に妙観察智、この世のありとあらゆる存在の個別性・特殊性を如実に認識する智慧である。平等性智と合わせて重要な認識である。阿弥陀如来の智慧である。
次に成所作智、これは認識ではなく実践智である。釈迦如来の智慧である。
最後にこれらの智慧を合わせて、法界体性智となる。大日如来の智慧である。
私は平等性智と妙観察智という言葉がやたらと好きで、普遍性と個別性などとして、よく世の中や自然を観察していた。
しかし、仏教の場合、普遍的な平等性が光源となり個別性・特殊性がその投影となる。すなわちありとあらゆる存在の実相は、無差別平等の真理であり、それが仮相として所々に投影した姿が個別的特殊性なのである。
よく仏教で使用される水と波の比喩を使うのならば、実相というのは水そのものであり、形はあってないようなものである。これを無相と言う。またはこれこそ空性というのである。これに対して仮相というのは、波のようなものである。波というのは、ただの働きでしかなく、実際は波というものは水が生み出した仮の現象にすぎない。
実相と仮相というのは、このように水と波の関係た例えられる。仏教においては、平等性というのは水のようにありのままの真実に他ならない。これに対して、個別性というのは、波のような仮の現象であるとされる。
このような立場を如来で例えることができる。宇宙の真理は普遍的な真理である大日如来であるが、これが個別性を持ってあらゆるものに顕現したものが諸尊である。阿弥陀にも不動明王にも釈迦にも観音にもなる得るわけである。
大日如来は宇宙の普遍性を示す真理である故に、我々自身もまた大日如来の一部なのである。これに対して、それぞれの個別的な真理を象徴するものが、他の如来や菩薩や明王なのである。慈悲を象徴する仏、智慧を象徴する仏、福徳を象徴する仏。だからこそ、星の数ほどの仏身がいるのである。諸尊が個別的な真理を意味する為に、それは取りも直さず普遍的な真理の大日如来に包括される。それが密教の宇宙観である。
真言密教の教えに従うならば、仏教の目標とは、根本となる慈悲そのものであり、その結果としての利他行なのであろう。そしてそうした活動の全てを、空の認識が確固たる真理として下支えしているというものなのであろう。
私は大日経の語るような仏教像が、今日、宗教として最も社会に適応した健全な形だということを疑わない。宗教のたどり着く姿は社会的な救済活動を行う団体であるというのは、キリスト教や他の宗教においても同様なことを語られるだろう。
それにも関わらず、私は宗教がこの道をゆくことを心のどこかで否定し続けるだろう。仏教が社会に順応するのではなく、仏教徒は時として社会から外れて、他人の理解の及ばぬ、孤高の道をゆくこともあるだろう。そうした姿を私は禅に見るのである。
人間の心は必ずしも、社会的に生きられるものではない。道徳的に他人に誇れる歩みを見せられるものでもない。格好もつけられない悪人であることもある。そんな時には親鸞の生きた道を思い出す。
仏教における利他行とは、自己犠牲の精神であるという。しかし自利が失われてはもはや利他もない。自利即利他、自他の無分別の認識においては、まさにこれが真実の観音の道であった。自分を大切することができて、他人を大切にすることができるのだと信ずる。身を滅ぼせば人間は悪にならざるを得ないのである。これからの利他行のあり方は決して自己犠牲ではあってはならないと堅く信ずるのである。
また慈悲の衝動が湧き上がらず、また倫理道徳への深い詮索が欠如した状態で、利他行を形式的にのみ実践しようとすれば、それは偽善的行為や独善的行為に陥らざるを得ない。宗教の持つ最大の危険性とはまさにそれである。
利他行の実践とは、我々が普段考えている以上に、高度な倫理なのであり、容易に近づけない境地に存するものなのである。また繰り返すようであるが、利他行の持つ自己犠牲の精神は、多くの人間の精神を崩壊させるほどの危険性を孕んでいる。
だからこそ、我々は今一度、親鸞上人流の「悪人の自覚」を噛み締める時間を持たねばならぬのだと思う。慈悲と智慧の体得というものは、まさにこの「悪人の自覚」が出発点なのだということを決して忘れてはならないと思うのである。




