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和歌山 高野山3

★★★★

 空海は「十住心論」の中で、真言宗の思想の優越性を語る論理を生んだ。これは空海の最も重要な思想の一つである。十住心とは、これまで混沌と存在していた仏教思想を発達段階的に十段階にまとめあげたのである。



 では、その思想の十段階とは何かというと。



1、動物的本能の世界

2、倫理・道徳心の発芽(儒教)

3、死後の世界などの宗教心の発芽(道教)

4、無我説・人空法有(声聞)

5、業煩悩の断滅(縁覚)

6、大慈悲の芽生え(唯識・法相宗)

7、空の認識・人空法空(中観・三論宗)

8、法華経の思想(天台宗)

9、華厳経の思想(華厳宗)

10、大日経の思想(真言宗)



 このように見ると、実際の歴史的発展とは多少そぐわない点がある。中観が唯識の後に来るのはどういう訳だろうか。何にせよ、空海はこのように説明することで、仏教のたどり着く最終段階を真言密教の思想であるとした。

 ただ最も重大な疑問は、その内容にある。大慈悲が芽生えたその後に空が認識されるというのは、原理が理解し難い。空は根本智であり、慈悲は後得智のはずである。空の無差別平等の認識があるからこそ、自己と他者の分別が無くなり、慈悲が生まれるのではないだろうか。そもそも本来、智慧と慈悲とは分けられて考えられるべきものではない。また世界の空が認識されていない段階に、どうして自己の空のみを悟り、煩悩を断つことができるのだろうか。このように、この空海の十住心論には納得できない点が無数にある。



 第一、このように菩提が十段階に分けて認識されるとは到底考えられない。禅においては悟るという瞬間はたったの一度である。ただ空であることを知り、慈悲の沸き起こることを知る。それだけのことのはずである。おそらく、空海の十住心論とは本来一つの菩提(ぼだい)をわざと分別して説明した方便なのだろう。

 したがって、これを一般に言われるように発達段階として見るとしたら、とんでもない誤解を招くことになるだろう。



 このように、空海の思想は難解にして、その後の仏教の思想とも相容れないところが多々ある。ただ、その空海の詩に私が好きで好きで仕方のないものがある。



 三界の狂人は 狂せることを知らず

 四生の盲者は 盲なることを()らず

 生まれ生まれ生まれ生まれて 生の始めに暗く

 死に死に死に死んで 死の終りに(くら)



 これは人間が根源的な無知ゆえに輪廻転生を繰り返すその姿を劇的に描いている詩である。仏門に進まんとする人間は、やはり人生や生命に対する自己の根源的な無知の自覚、すなわち親鸞上人の言うところのこの「悪人の自覚」を最初に持たなければならぬことだろう。

 ところが、空海は人間の無知、または親鸞的な「悪人の自覚」を詩にしながらも、一方でどこか自信に満ち溢れていたように思う。仏教では本来、それを慢心というはずだが、空海にはそういう桁外れなところがあって、遣唐使として唐に渡った時も、インドへゆくという壮大な計画を一人抱いていた。天才なのである。

 それに比べて、最澄は性格的に桁外れな訳ではないが真面目で秀才であり、慈悲の深い人間であった。

 空海一人が天才であった為に、真言宗のその後の発展は芳しくなかった。対して天台宗は、最澄の時代には真言宗に押され気味だったようだが、その後も教育体制が整備され、天台宗から浄土教、禅などの祖師が多数輩出されることとなったのは皮肉である。

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