和歌山 高野山1
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高野山の回では、書くべきテーマが無数にあるので数回に分けてじっくりと書いてゆきたい。
高野山は真言密教の総本山である。高野山は日本一の宗教都市であり、蓮の花の形をした標高約800メートルの台地の上に、無数の真言宗系の寺院が立ち並ぶ。そこにはガソリンスタンドや床屋もあり、多くの住人が生活する完全なる都市として機能している。
一時間ほど、南海高野線で山をぐるぐると登り、その後、五分ほどケーブルカーに乗ると、高野山の駅となる。そこからバスが出ていて、荘厳な山門から金剛峰寺、如来が祀られる巨大な大塔、そして五輪塔の立ち並ぶ森の中にある奥の院まで移動することができる。
高野山にはネパール風の変わったお寺や、覚鑁上人の密厳院、高野山大学もあり、宝物館には運慶や快慶の造った仏像も祀られているし、仏教好きからするとまさに楽園なのであった。
平安時代前期に、弘法大師空海はこの地を嵯峨天皇から賜って、この場所に真言密教の一大拠点を置いた。
天皇や公家たちは当時流行していた疫病やその原因となる怨霊を恐れ、それまで心理学的または哲学的領域に留まっていた奈良仏教に代わる、より呪術性と現世利益に富んだ新仏教を求めていた。それは仏教に実利性が求められ始めたということである。
この頃、中国の唐へと向かう遣唐使船の中には、ずば抜けた才能を持つ二人の僧侶がいた。すでに仏教界で地位を確立していたエリートの最澄とまだ名前も知られぬ若き日の空海である。最澄は唐ではすでに過去のものとされていた天台宗を学び、空海は当時最先端の思想であった真言密教を学んだ。
ところが二人が持ち帰った新仏教は、空海の持ち込んだ真言密教の方が喜ばれるという皮肉な結果を招いた。密教は祈祷仏教としての性質を持ち、疫病や怨霊に利益があるとされたからである。これに危機感を募らせた最澄は、自分より低い地位の空海に弟子入りして天台宗における密教をより高めようと努めた。
天台宗がその後、密教化していったのは時代の要請であった。
ところが最澄と空海が仲違いを起こした原因は密教観の根本的な違いにあった。最澄は密教を仏教の一分野としか考えていなかった。つまり最澄は天台宗においては、円教も学び、禅定も行い、念仏も唱え、戒律も守る、そして密教も実践するというのである。
これに対して、空海は密教の中に様々な仏教思想が包括されると考えていた。空海は仏教思想が段階的に成熟する中で、最終的に到達するのが大日経に基づく真言密教の思想だと言うのである。
密教とは何かと問われれば、秘密仏教のことであり、ヒンドゥー教の影響を受けてインドで成立したタントラ的仏教である。祈祷仏教的な性質を持ち、呪術性を兼ね備え、現世主義的な思想を持つ。
また真言密教の思想は、真理そのものである大日如来が直接衆生に語りかけてくるという。こうなると釈迦如来は、大日如来から顕現した数多の如来の内の一部でしかない。密教の支持者が語る、顕教(密教以外の仏教)に対する密教の優位性というのは、まさにこうしたところにも見ることができる。
真言密教の詳しい思想は次回から語るが、簡単に述べておくと、真言密教の思想とは唯識思想と華厳思想を背景に持ち、尚且つ密教として完成されたものである。
高野山の巨大な山門を見学してから、高野町を散策して歩き、食事なども済ませて金剛峰寺を参拝する。その先には、見たこともないほどに巨大な大塔があり、その塔の内部には極彩色の曼荼羅風な世界を荘厳していて、巨大な大日如来が見下ろしている。
ただ金剛峰寺や根本大塔よりも、もっと圧巻であったのは、奥の院へと続く長い長い墓所である。
ここには見上げるほどに巨大な五輪塔がこれでもかこれでもかというほど数多並び立つ。また深い森の中のことで、空気がとても清々しい。
ここには織田信長など有力な武士の墓も数多くある。信長は遺体が発見されていないので、この墓は供養塔と言った意味合いなのだろう。
十世紀から十一世紀、末法思想も強まる中で、高野聖たちは全国をまわりながら、この高野山に遺骨の一部を納めて墓を立てることを一般に勧めた。そうすることで、無事に浄土に往生できるというのである。このことが、全国一般に納骨習慣というものを生み出すことに多大に貢献したのである。
だからこそ、こんなにも強烈に、この高野山の墓所には五輪塔が並び立っているのである……。
その先には奥の院がある。ここもまた霊験あらたかな雰囲気を醸し出している。暗闇の中にぼんやりと無数の灯火の揺らめき、その先に、弘法大師空海の霊廟がある。
「南無大師遍照金剛」
弘法大師の名を唱える時は、このように言う。
弘法大師に何を伝えたのか、私はよく覚えていないが、この時の荘厳な雰囲気だけは忘れることができない……。




