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京都 浄瑠璃寺

★★

 今回はややこしい話を語る気が全くないので、前書きの星印は二つだけである。この星印は今回から加えられた要素だ。これはエッセイに仏教思想に関するややこしい内容を書くことで、読者が減り続けることを心配した筆者が、各回の難易度を示す為に、前書きに書き加えたものである。

 こうすることで、読者は難解な回は避けることができるし、筆者も何の気兼ねもなく仏教思想の核心に迫れるというものである。

 ……とはいっても仏教思想の最も重要なことはすでに「奈良 法隆寺3」に書いてしまったのであるが。つまりそれは「悟り」であり「空の思想」に関する内容だ。しかし、あの回こそ最も難解な曲者であり、あの回を読んでしまった為に、このエッセイを読み進めることを辞めてしまった人もいることだろう。

 だが、筆者があの理解不能な回を第六回目に持ってきたのにはそれなりに理由がある。連載の場合、どうしても回が増す毎に読者は減ってゆく。早い段階で最も重要なことを、どうしても説明しておきたかったのである。

 ただ、空をああしたアプローチで説明することは元より限界があると思う。限界がある故に複雑にならざるを得なかった。それは「空」自体が複雑なものなのではなく、本来、言語化というものを許さないはずの空の境地を言語によって説明しようとした為に、無理が生じて、難解にならざるを得なかったのである。情けないことに、そういう言い訳を述べておく。そして空が何であるかを頭で理解したところで、それは所詮は知得したことでしかない。まったくそれは「悟る」とは別のことである。悟りとは知得ではなく体得なのである。空はもっと体験的に認識されねばならないことなのである。

 ところで、先ほどから愚痴ばかり言っているが、この回は一体何なのだ。筆者の愚痴を言う場所だろうか。無論そうではあるまい。

 ただこの折角の機会に、星印の説明をあと一つだけ付け加えておこう。星印の多い回は難解だが、実は重要なことを述べている回だったりする。哲学や宗教学が元々大好きな人や、ちょっとばかし物好きな人は是非是非読んで頂きたいと心から願う次第である。



 京都府の浄瑠璃寺はむしろ奈良駅に近い。東大寺の近くである。浄瑠璃寺には九体の阿弥陀仏が並んでいる。どれも見事な仏像である。

 この阿弥陀仏が九体というのにはちゃんと理由がある。阿弥陀仏には死者を迎えにゆく、来迎(らいごう)ということがある。

 この来迎に際して、生前の行いによって九種類のお迎えがあるとされる。それは上品上生、上品中生、上品下生、中品上生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生、下品下生の九つである。……というよりも、下品下生の人にはそもそもお迎えはこない。

 そういう訳で、浄瑠璃寺に九種類の阿弥陀さんが並んでいるのは九品の阿弥陀という訳である。こうした九体阿弥陀坐像は平安時代に大流行して、量産されたが、現存するのはこの浄瑠璃寺だけである。藤原道長の法成寺にも、この九体阿弥陀坐像があったが焼失してしまった。



 そもそも阿弥陀仏(あみだぶつ)とは一体如何なる仏であろうか。おそらく日本人にとって阿弥陀仏ほど親しみ深い仏はいないだろう。日本人がしばしば「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」「ナンマンダー」「ナンマンダブ」などと称えるは、これは称名念仏(しょうみょうねんぶつ)というものであり、阿弥陀さんのお名前を唱えることである。

 このような念仏をすることによって、阿弥陀仏の仏国土である極楽浄土に往生できるというのが、今日、日本に広く伝わる浄土信仰なのである。

 さて念仏についてであるが、仏さまの名前の前につける「南無(なむ)」とは何のことかと言うと「帰依します」という意味である。「南無阿弥陀仏」とはつまり「阿弥陀様に帰依します」という信仰の誓いなのである。

 ところで、なぜ阿弥陀仏の名前を唱えると、極楽浄土に往生できるというのだろうか。それは阿弥陀仏がまだ菩薩であった頃に立てた四十八願に由来する。阿弥陀仏は如来になる前は菩薩であり修行の身であった。その菩薩の立てた四十八条の誓願の中で「私を信じ、私の名前を唱えた者は、一人残さずに私の仏国土に往生する。もしそうでなければ、私は如来にはならない」と誓っている。これが阿弥陀の本願である。

 そして阿弥陀仏は無事に如来となった。したがってこの誓願は約束されたことになる。

 さて平安時代に日本は末法となり、鎌倉時代になると法然上人が出て、庶民に浄土信仰を弘めた。末法の世においては、自力(自分の修行)では成仏することができないとされた。こうした時代に地獄に落ちずに成仏するには、自力ではなく他力、すなわち阿弥陀仏の本願に頼って成仏させてもらうしかない。その為に唱うるのが本願念仏というものなのである。



 私は岩船寺の石仏めぐりがしたくて、そのついでに、浄瑠璃寺付近にも寄ったのだが、並び立つ九体の阿弥陀像は圧巻だった。それも中央の阿弥陀仏は柔道家やプロレスラーを思わせる、男前の像容だった。

 真夏の散歩道は焼けるように暑く、浄瑠璃寺の本堂に入るとひやりと涼しかった……。

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