京都 東寺
★★
わたしが東寺にはじめて訪れたのは、大学二年の頃だった。歴史学という分野が専門になったというのに、わたしは京都に行ったことが一度もなかった。ふざけた学生である。
わたしはその頃、仏教史にはまっていた。特に般若心経の思想にどっぷりはまっていた。世の中は空だ、ということだけを読み込んで、仏教の思想があたかも全て分かった気になって、すっかり慢心していた。
他の経典は読んだことがなかった。法華経は聞いたことがあったが、華厳経など名前も知らなかった。宗派に関しても無知であった。甚だふざけた学生である。
大学のゼミは近世専攻でありながら、幕末にはまるで興味がなかった。ただ浮世絵ばかりを眺めていた。歌川国芳に出会うと、これこそ浮世絵の究極の姿と確信することとなった。それで、江戸時代の全てを悟った気になっていたのは、まったく般若心経の時の同じである。
話が早くも脱線しているので修正すると、わたしは大学二年の夏休みにはじめて京都に一人で旅行した。
京都は死ぬほど暑かった。市内はずっと雨が降っていたが、宇治の平等院に着く頃、いきなり晴れてきて、とてつもないじめじめとした嫌な暑さに変わって、わたしは目がくらくらした。
したがって、この時にめぐった清水寺も金閣寺も銀閣寺も仁和寺も、雨のせいで観光的にはさんざんであった。ただ、わたしは勉強の為に来ていたので、その点はさほど気にならなかった。
龍安寺の石庭は、特に雨の降りが強くなって、外国人の雨宿りスポットと化していた。
二泊三日の三日目に、わたしは念願の真言宗本山の東寺に訪れた。真言宗の空海こそ仏教界のスーパーマンだと確信していたわたしは、この寺に訪れることを、この旅の最大の目的としていた。
わたしはこの頃、淡白な世界観の禅にはまるで無関心で、曼荼羅のもつ原色的色彩から、真言密教に魅力を感じていた為に、京都に禅寺が多いことに少しばかり戸惑いを感じていた。
三日目に、東寺に訪れた時、ようやくほっとしたのはそういう理由からだった。
東寺の立体曼荼羅を見た。そこには巨大な如来と菩薩と明王と天部の尊像が数多く並んでいた。それがはじめて見えた時は、思わずぎょっとした。何だか恐ろしくさえ思えた。ここにはつまり、大日如来を中心とする密教的な宇宙観が表現されていた。わたしはその見応えに大変満足しながら、その反面、多くの不満を抱いたのに違いなかった。わたしは仏像から何を学んで良いのか分からなかった。そのため、わたしはその芸術性に感銘を受けながら、自分が思想的に新しい領域に達したとは思えなかった。ただ、漠然と、慈悲があるのだ、と思うだけだった。
考えてみれば、わたしはこの時、曼荼羅をどう解釈して良いのかということが甚だ謎であった。そのことで頭が一杯になって、単純にああ良かったとは思えなかった。
わたしはそれ以上、あまり考え込まずにただ家に帰ることにした。そして、わたしは八つ橋を抱えて、東海道新幹線に乗った。
一応、曼荼羅について述べることとする。もっとも、わたしは宗教者ではないので、この解説は不十分極まるものであることをご理解頂きたい。
わたしが曼荼羅について考え出してから、しばらくが経ったころ、それが菩提と煩悩の二つの領域をつなぐものであることをだんだんと頭で理解していった。菩提とは悟りの境地であり、煩悩とはさまざまな苦しみの元となるものである。
宗教学者の研究によれば、胎蔵界曼荼羅の中心の大日如来はまさに菩提、すなわち悟りのシンボルであった。そして、曼荼羅の一番外側にいるのは天部の神々たちであった。神々にもやはりさまざまな煩悩があって、われわれのような迷える衆生と変わらないのだという。そうしてみれば、曼荼羅には、人間のもつ菩提と煩悩という精神的な世界の関係性が、そのまま仏と衆生という関係性となって表現されていた。
しかし、わたしはこの頃、この説明は宗教学的な解釈であって、実際的には僧侶の修行の瞑想の際に使用される実用的なものだという解釈に落ち着いた。
また、それさえも平面的な曼荼羅の話であって、立体曼荼羅となると完全に太刀打ち出来なかった。
第一、わたしはこの時、仏と衆生、すなわち菩提と煩悩の関係性について、別に深い関心を示したわけではなかった。ただ曼荼羅をはなから頭で解釈しようとかかって、ジレンマに陥っている阿呆な学生が講堂にひとりでいただけであった。
それよりも、わたしは京都で、この東寺の五重塔に魂をやられた。五重塔は遠くから見れば見るほど美しく、近づくと著しくバランスが壊れた。
わたしは街の間から、あの女性的な五重塔が見えた時に、すっかりやられてしまった。
東洋思想的なものを調べたいと思ってはるばる関東からきたくせに、仏教建築にばかり感心して、写真を撮ることばかり夢中になったけったいな旅行だった。
そして、暑かったせいもあるが、抹茶アイスクリームばかり食べていて、この東寺の売店でも、抹茶アイスクリームをほうばっていた。
おかしいなぁ、哲学の旅のはずなんだがなぁ、と思いながら、思考はストップし、抹茶アイスクリームの美味しさばかり鮮明だった。