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東京 築地本願寺

★★★★

 今回は何故かいきなりインドの歴史から始まる。築地本願寺はインド風の建築なので、とりあえずこの場をお借りしてインドの話をしてしまおう。

 なぜ今インドなのか。それは今まで日本仏教の話を延々と述べてきた訳だが、そもそも仏教とはなんなのだ、という疑問が、そろそろ爆発するのではないかと思われたからである。

 インド仏教と日本仏教は違うものであるし、中国仏教もまた違うものである。しかれども仏教というものは、やはり歴史的には、インドに発して中国を経由し日本に伝来したものなのである。そのシルクロードの長い旅の途中で、思想を発展・成長させてきたものなのである。

 私はインドのお寺に行ったことがないので、なかなかインドの歴史を語る回をつくれなかった。しかれど、まったく書かないことはエッセイとして不親切極まりないと感じ、ここにインド編を開始する。



 仏教の開祖、釈迦牟尼(しゃかむに)(以下ブッダと呼ぶ)は、今から2500年前に、ネパールのルンビニー園で産まれた。彼はインドの小国の王子であった。彼は若くして人生の苦しみ(四苦八苦(しくはっく))を城の四つの門の外側に見て、王位を捨てて出家することを決意した。ブッダは様々な僧の下に弟子入りし、当時流行していた断食(だんじき)や呼吸を止めるといった壮絶な苦行を実践したが悟ることはできなかった。

 ブッダは修行の末に、少女スジャータから乳粥をもらい、これをきっかけに無益な苦行を一切止めて、本格的な瞑想修行に入り、菩提樹の下で瞑想中についに悟りを得た。

 このようにして、煩悩から生ずる一切の苦を取り除くことに成功したブッダは、煩悩のない寂滅(じゃくめつ)の境地をひとりで楽しんでいた。その彼のもとに、インドの最高神ブラフマン(梵天)が現れて布教を勧めた。これをきっかけとして、ブッダは布教活動を開始した。

 その後、ブッダは祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)を拠点として熱心な布教活動を行い、多くの弟子と信者を獲得して、現在のインド・パキスタン一帯に仏法を弘めた。

 ブッダはその後、自ら死期を悟り、二本の沙羅(シャーラ)の木の下で北枕で横になりここに入滅した。



 これが伝わるところのブッダの生涯である。ここで問題なのであるが、こうした話は初期の仏典を参考にしたものであり、大乗仏教徒にとっては人間としての釈迦の活動はそれほど重要ではない。この後にブッダは仏身として、生前以上に多くの宗教的役割を果たした。また、ブッダが説いたこの時点で、仏教の世界には阿弥陀も説かれていないし、観音もいないのである。つまり、ブッダ自体の仏教観よりもこの後に、思想的に重大な発展・成長があったと見るのが大乗仏教の立場である。

 あるいは、高次元の思想は難解である為、ブッダは弟子や信者に語らなかったとみる。語った思想は方便であり、低い次元のものとみるのである。

 天台宗の思想によれば、ブッダははじめに華厳思想(けごんしそう)を悟ったが、高次元すぎる為、民衆に説くのは諦めた。そこで分かりやすい阿含経(あごんぎょう)の思想を語ったのだという。また、その後、ブッダは般若思想や維摩経の思想を悟り、最終的には法華経(ほけきょう)の思想、涅槃経(ねはんぎょう)の思想を悟ったのだという。法華経を最重視する天台宗的な論理である。

 また真言密教では、ブッダよりも高次元の真理を大日如来が語るのである。大日如来を法身仏という。つまり真理そのものの存在である。これに対しブッダ(釈迦仏)は応身仏であり、人間に教えを伝える為に一歩人間化した仏なのである。真理そのものである大日如来が語ることの方が、より高度で本質的なのだという。

 したがって、大乗仏教はこのブッダ当時の仏教のことを「小乗仏教」と差別と侮蔑を持って呼称する。また中国、日本へとシルクロードに伝来した大乗仏教(北伝仏教)に対して、セイロンや東南アジアに伝来した南伝仏教も「小乗仏教」と呼称するのである。あるいはこれを上座部仏教とも称する。この呼称はブッダの死後、弟子が集まった第二回結集(だいにかいけつじゅう)の際に起きた根本分裂(こんぽんぶんれつ)の保守派のことを上座部(じょうざぶ)と言ったことに由来するものである。

 ブッダ当時の初期仏典で最も重要なものは、阿含経(あごんぎょう)である。当時の仏教思想は四諦(したい)八正道(はっしょうどう)十二因縁(じゅうにいんねん)の教えと要約される。この世には苦しみしかないことを悟ること、苦の原因は煩悩であると知ること、その煩悩を断つこと、煩悩を断つ為の道をゆくことの四つが「四諦」である。そして、「八正道」とはその為の八つの正しい行いである。「十二因縁」は、苦しみを生じさせている十二の因果関係の原理を逆に瞑想するものである。そして過去の執着を捨てること、未来を願わぬこと、今なすべきことをなすことなどが説かれる。後は戒律を守ることなどである。

 大乗仏教が生まれたのは、この「未来を願わぬこと」などに対して、生きる喜びすらも失われるのではないか、という疑問からである。



 インドが仏教を生んだのは、次のような歴史に従う。インダス文明を築いたのは先住民族ドラヴィダ人であった。先住民族ドラヴィダ人は、死後はヤマ(閻魔)という支配者のいる死後の世界に転生する他界観を持っていた。

 対して、これを侵略した遊牧民族アーリア人は自然を崇拝していた。当時の祭祀に関する賛歌『リグ・ヴェーダ』によれば、死後、人間の魂は気体となって天に登って雲となり、雲は雨となって大地に降り、雨は植物となって生えて、それを動物が食べられて動物となり、その動物の肉を食べて人間の内部に入り、再び人間として生まれてくるという初期の輪廻転生(りんねてんしょう)思想を持っていた。

 遊牧民族アーリア人は先住民族ドラヴィダ人を侵略し、インドの大地に定住するようになって、ここに支配者と奴隷という身分差別が生まれた。

 ドラヴィダ人とアーリア人の身分差別は、その後にさらに細分化されて、バラモン(司祭者)、クシャトリヤ(王族)、バイシャ(庶民)、シュードラ(奴隷)の四階級に分けられた。これらを分かつものは、アーリア人の血がどれほど濃いかという点であった。この四階級身分制度が細分化を続けて現在のカースト制度に至るのである。

 バラモン(司祭者)を頂点として古代インドの社会は成立していた。バラモン教はこうしたインドが育んだ宗教であり、後に民間信仰が合流することでヒンドゥー教となる。

 当時無数に存在した小国は次第に併合を繰り返し、十六大国を形成した。その中でも、最も有力だったのはネパールに近い位置に首都を持つコーサラ国と、ガンジス川中流域のマガダ国である。マガダ国は後に、インドを統一することとなる。

 このような時代に、自由な思想家が無数に輩出されることとなった。仏教から見れば、それらは異教徒であり、六師外道(ろくしげどう)と呼ばれた。

 六師外道の中でも、現在でも存在する有力な宗教はマハーヴィーラを開祖とするジャイナ教で、無所有と極度の苦行を実践した。彼らはヌーディストであり、不殺生を徹底してして、箒で虫を掃きながら踏まないように歩行する。また口の中に虫が飛び込んでこないようにマスクをつけている。

 このような差別的身分制度と自由な思想が混沌としている古代インドの大地で、ブッダは平等主義を宣言した。そして、その生涯で仏教という宗教を産み落としたのである。また悟りという宗教的体験を後世に残した。これを追体験しようとするところに仏教修行の特徴があった。

 その後に、マガダ国のビンビサーラ王によって全インドが統一された。マガダ国の王朝は、ビンビサーラ王朝からシャイシュナーガ王朝、ナンダ王朝と様変わりした。内紛の絶えない王室だったのである。そしてマウリヤ王朝となって、マガダ国は絶頂を迎えた。

 この時、ダレイオス王やアレクサンドロスのインド侵入があった。

 マウリヤ王朝は、英雄チャンドラ・グプタによってナンダ王朝を滅ぼすことによって成立した。完全なる全インド統一はこのマウリヤ王朝によって実現されたのである。

 そしてチャンドラ・グプタの孫、アショーカ王は熱烈な仏教信者であった為、仏教を手厚く保護し、戦争主義から平和主義への転換を、仏教国家による「(ダルマ)の実践」によって実現しようとしたのである。しかしその高尚な政治理想と実際の経済・文化状況は必ずしも一致していなかった。アショーカ王の死後、マウリヤ王朝は衰退・分裂を始め、異民族の侵入によって滅亡して行ったのである。

 そして、この次のシュンガ王朝は、バラモン教の復興に尽力した。



 そしてインド仏教は、アショーカ王の時代に第二回結集(だいにかいけつじゅう)によって根本分裂(こんぽんぶんれつ)、そしてその百年後には枝末分裂(しまつぶんれつ)を引き起こし、様々な部派に分かれて高度な論争を繰り広げる部派仏教(ぶはぶっきょう)の時代に入っていった。部派仏教の中で最も強力な説一切有部(せついっさいうぶ)は、上座部仏教のルーツであるとされる。

 彼らは法の実有(じつう)を説いた。すなわち、この世のありとあらゆる存在は確かに実体をもって存在することを説いた。これに対して大乗仏教徒は、法の空性(くうしょう)を説いた。この世のありとあらゆる存在は空であるというのである。

 ブッダが説いた無我説をめぐっては、説一切有部は「刹那滅(せつなめつ)(しん)相続(そうぞく)」を説いた。つまり刹那(せつな)(時間の最小単位・原子)の内に心は消滅してしまうが、次の心を生み出す為の種子(しゅうじ)を残す。種子は次の刹那に心を生じさせる。それは前の心とは少しだけ変わっている心である。したがって、過去の心は現在の心とは違うものだが、種子によって相続されることによって持続され、変化することができるというものである。

 このような論法を説かざるを得なかったのは、ブッダが無我説(むがせつ)を説いていたからである。法の実有と無我説が互いに矛盾しない為には、このような複雑な理屈をこねまわさなければならなかった。

 インド仏教はその後、龍樹(りゅうじゅ)(ナーガルジュナ)の中観派(ちゅうがんは)によって、般若思想すなわち空思想の体系化がなされ、無著(むじゃく)世親(せしん)弥勒(みろく)による唯識派(ゆいしきは)によって、最高の水準に達したのだが、このことは今は述べられない。唯識派の思想を受け継ぐ法相宗(ほっそうしゅう)の興福寺の回に述べたいと思う。



 築地本願寺については、これから述べたいと思う。インド風な建築が美しい寺である。

 築地にゆくと、特に玉子焼きが美味しい。そればかりではなく鰻や焼売も食べた。後は、金欠な三人組だった為、寿司のようなものは食べられない。しかし二人は海鮮丼と一人はネギトロ丼を食べて、ほっと一息ついた。とある友人は金欠であった為、一切れの玉子焼きを少しずつ切り分けて味わっていた。なんだか、良い香りがして腹の減るところである……。

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