岩手 常堅寺
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遠野物語の現場に行ってみたいと思って、岩手旅行の途中で、遠野に立ち寄った。遠野に来てみれば、田舎にしてはなかなか栄えているな、と思って少しがっかりしたが、カッパ淵に向かって二十分も歩けば、日本の原風景、里山らしい田んぼの風景が広がっていた。
私は大学二年の頃から民俗学に興味があったが、学校の民俗学の講義を一年半ほど受けたぐらいで、それっきりになっていた。
民俗学とは歴史学の一分野である。基本的には歴史学というものは文献史学と考古学と民俗学とに分かれる。文献史学というのは古文書とか古記録とか、つまりはミミズののたくったようなくずし字や漢文を解読して云々かんぬん。そういうのが文献史学である。
それで私は民俗学の講義では、成績だけは非常に優秀で、最高評価を得られたのだが、ついに二、三の講義だけでご縁を切ってしまった。ただその一時的なマイブームの時には、民俗学の中でも、特に仏教民俗学が好きだった。祭りや民間信仰を調べるのが特に面白かった。
それはともかくとして、私はカッパ淵に向かう道の途中で(そもそも、なぜ歩きで向かっているのか……)キツネの関所という場所にたどり着いた。その時には妙な気がした。私は小さい頃からあるキツネの昔話を読んで、それが好きだった。その本はどこかへ行ってしまって、再現することもできなかった。このキツネの関所には石碑が一つだけ立っていた。その石碑に書かれているのを見ると、どうも私が好きだったのはこの物語らしい。そして、その現場はまさにここなのだ。田んぼばかりの遠野の少しばかり小高い丘の上で、そんなことに気づいて、思わずゾッとした。そして、無性に嬉しくなった。
キツネというのはなかなか可愛げのあるやつである。この遠野にはキツネの昔話が沢山あるらしい。それはともかく、しばらくして伝承園という資料館にたどり着いた。伝承園では曲り家、要するにL字に曲がった遠野の民家があって、中に馬屋と土間があり、囲炉裏があった。それと養蚕関係のものも並んでいた。
その奥にはオシラサマのご神体の桑の木が祀られていた。オシラサマというのは、遠野の昔話で、馬に恋をした娘さんが農業の神となったものである。自分の娘が馬を好きになり、ついには結婚してしまったので、お父さんが心配のあまり、馬を殺して、その首をはねてしまうと、娘さんはその馬の首に飛び乗って、そのまま空に飛んで行ってしまったそうだ。
ここで食べたひっつみ(すいとん)が美味かった。ひっつみは岩手の郷土料理で、小麦粉の餅のようなものが入った汁物だ。汁もあっさりとしていながら、深みがあって美味かった。ネギや鶏肉もなかなかの美味。それにひっつみの食感が独特で良かった。心まで暖まるようだった。
寺巡りの旅で食べたものの中では、庄内地方の豚肉を使った味噌味の芋煮と、このひっつみ(すいとん)が一番美味しかった。もちろん庄内の芋煮だけでなく、山形の方の牛肉を使った醤油味の芋煮も大変美味である。後は山形の板蕎麦と岩手の蕎麦がまことに美味しかった。
あとは庄内の鶴岡で食べた鯛の塩焼きは、身が絹のようになめらかで、ふっくらと柔らかく、上品な甘味と香りがあって、尋常ではなく美味しかった。肉よりも魚が好きなので、米沢で食べた米沢牛のステーキよりも、圧倒的に鯛の方が美味かった。これほどまでに美味いものがこの世にあるのかと思った。
汁物と蕎麦と焼き魚は、この世で最も美味しいものだろうと思う。
盛岡冷麺とじゃじゃ麺は、味音痴の私にはまだ美味しさが分からなかったので、またいつかリトライしてみたいと思う。
その後カッパ淵へゆくと、水量が減ってしまっていて、また綺麗な水であることもあって、淵の底が見えていた。あきらかにカッパはいなかった。それで、少しばかりがっかりしたが、隣の常堅寺で、カッパの狛犬を見て、その後、福泉寺へと歩いて行った。
常堅寺は、昔、寺が火事になった時に、カッパ淵からカッパが出てきて、火を消し止めてくれたのだという。それで住職がお礼でカッパの狛犬を作ったのだとか。
それにしても、田んぼの中、小川が流れていたりして、気持ちの良い眺めだったなぁ……。
人は生前、死を恐れ、死を自己存在の消滅と捉え、死後に忘却されることを恐れる。確かに人間は死によって肉体的に死に、死後に忘却されることによって精神的に死ぬ。ところが、死後に忘却されることは真実に生まれることである。死後の忘却とは、自然への完全なる帰還である。名前も失い、記憶も失い、生前の束縛を一切離れて、ついにはただただ自由な自然となってこの大地に横たわる。あるいは桜となって花を咲かせる。桜の花は人間の魂の集合体だとも言う。そこに残るは、ただ自然という事実でしかない。あるいは自然神や先祖神の如き観念である。自然が自由であると思われるのは、そこに忘れられた数多の魂が、何の捕らわれもなく、風として吹き渡っているからである。
ああ、だからこそ自然はのびのびとして自由である。




