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京都 大原三千院

★★

 それは三回目の京都旅行の時のことであった。私はおばあちゃんと旅行していて、二日目に大原三千院に訪れた。京都駅から一時間半ほどだったと思うが、道中は紅葉は素晴らしく、赤々とした燃えるような紅葉が山を彩り、参道をも美しく彩っていた。

 その先に三千院はあり、美しく苔むした中庭の真ん中にその阿弥陀堂はあった。中には丈六(3メートルぐらい)の仏像があった。国宝の阿弥陀如来像であった。まるで満月を見ているかのように思った。暗闇にぼんやりと明るく浮かび上がったその仏像は、優しい微笑みを浮かべていて、まるで目の前に、無上の慈悲に包まれた極楽浄土の理想郷(ユートピア)が、顕現しているかのようであった。



 阿弥陀如来像と言えば、平等院の阿弥陀如来坐像のことは以前も書いたと思う。平等院の阿弥陀は、どこまでも絶妙なバランスで構成された美術的に高度な傑作であり、それは仏師定朝(ぶっしじょうちょう)の代表作であった。貴族たちの極楽浄土への強い願いが、あのような美しい本尊を生み出したと言えば、平等院の阿弥陀の歴史的意義はある程度読み取れるだろう。

 三千院の阿弥陀は、平等院の阿弥陀に比べて、全体的に肥っていて、より柔らかい印象を与えている。まさに満月のようだと言える。時代は十二世紀の中頃、定朝作の平等院の阿弥陀仏からちょうど百年あまりが経った頃で、定朝様、つまり定朝スタイルの仏像が大流行していた時期である。定朝の仏像と似ていることが、当時は何よりも重要であったらしく、似せる為に寸法まで測りに行ったというから驚きである。三千院の阿弥陀はその時代の最高傑作といえるだろう。



 十二世紀中頃というと平安末期である。極楽や地獄に対する認識は、鎌倉仏教の法然、親鸞、一遍まで進んでいなかった為、源信の『往生要集』の思想段階で留まっていたことだろう。地獄の恐怖は強調され、理想郷(ユートピア)としての極楽はさらに異彩を放って、余計に神々しかった。時代はすでに末法であり、まともな修行では悟りを開くこともできなかった。

 この時代にあって、三千院の阿弥陀仏は満月のように朦朧(もうろう)と光り輝いていた……。



 三千院の阿弥陀を礼拝した後に、おばあちゃんと近くのお茶屋でお弁当を食べた。いやぁ、この弁当に入っていた、がんもどきが実に美味しかった。複雑に味わいが詰まっていて良かった……。

 それにしても、紅葉が綺麗だった……。

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