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和歌山 根来寺

★★★★

 エッセイなんか書いていると、ついつい軽い話題ばかり書きたくなる。そうした方が読者は読みやすいし、多くの人に楽しんで貰えるからだろう。ところがそうして軽い話題ばかり書いている内に、もっと深い思想に立ち入りたくなる時が、しばしばやってくる。例えば、このエッセイの場合は仏教の思想などがそうである。

 今回のエッセイは、和歌山の新義真言宗総本山の根来寺(ねごろじ)について記したい。その中で、ちょっとばかり脱線してしまうことをお許し願いたい。それが苦手な人は今回は飛ばして、次の回にお進み下さいませ。



 新義真言宗(しんぎしんごんしゅう)というのは、真言宗の中でも中興の祖の覚鑁(かくばん)の思想に基づき、高野山を中心とする古義真言宗(こぎしんごんしゅう)から分裂した宗派である。さらに新義真言宗は、奈良の豊山長谷寺(ぶざんはせでら)を総本山とする豊山派(ぶざんは)と、京都の智積院(ちしゃくいん)を総本山とする智山派(ちさんは)に分かれる。

 興教大師(こうぎょうだいし)覚鑁の思想は、簡単に言えば、真言宗の密教思想に、当時流行していた浄土思想を合流させたもの。つまり阿弥陀さんの浄土ならぬ、宇宙仏の大日如来の仏国土、密厳浄土(みつごんじょうど)に往生するという思想である。そして、この密厳浄土とは突き詰めてゆけば、我々の生きている現世(げんぜ)娑婆世界(しゃばせかい))のことに他ならないという話になる。

 また覚鑁は、即身成仏の原理を具体的に説明したことでも知られる。即身成仏とは決して即身仏のことではない。即身仏とはお坊さんのミイラである。これに対して即身成仏というのは、生きながらにして仏になることである。ただ真言宗の開祖である空海の説明ではその原理がよく分からなかった。覚鑁は実体験を元にしてこれを説明したのである。勿論、今や覚鑁のその説明も理解不能である。

 覚鑁の重要性は、この世の構成要素を、地、水、火、風、空の五大とする仏教の思想をさらに飛躍させて、この世の構成要素を地、水、火、風、空、識の六大としていた真言密教の立場を、今度は人間の肉体に対応させていったことから即身成仏を説明しただろう。この五大は、例えば地は個体を表し、水は流動体を表すなど……それぞれ宇宙(自然)を構成するものの性質を如実に言い表している。

 五大は、地を四角、水を円、火を三角、風を半月、空を宝珠のマークにして表現される。これらの形を下から積み上げてゆくと、お寺でよく見かける五輪塔(ごりんとう)の形になる。ちなみにお墓に立てかけられている木の板の卒都婆(そとば)をよくよく見てみると、先っぽは五輪塔を薄切りにした形状になっている。お墓というのは、元々はどれもこうした五輪塔であったが、江戸時代に現在と同じような石柱型が流行した。その時に、かつての五輪塔の形状を、卒都婆にちょっとばかし残したのである。

 五大は宇宙の構成要素を表しているのであるが、これを人間の肉体に当てはめると、五輪塔は上から順に頭、眉間、胸、臍、腰下となる。五大は宇宙であると共に人間の肉体をも表すという。密教の自己即宇宙(自然)の思想がここにも表れている。

 この宇宙(自然)というのが、つまるところ大日如来によって象徴されているのである。大日如来は自然そのものであり、自己が即ち宇宙であれば、己と大日如来は同一である。私が仏で、仏が私。こういう思想は密教に留まらず、基本的には仏教全般が自己即仏の思想を持つ。そうでないものを紹介しておくと、源信、法然、親鸞の浄土教思想は仏を自己とはまったく違う信仰対象とみていると思われる。

 私が尊敬して止まない、踊り念仏の一遍上人は、こうした自己即仏(この場合は阿弥陀仏)の一体となる瞬間を念仏を唱えた時と見ている。浄土思想における自己即仏の思想である。また禅は基本的に自己が仏である。

 密教においても、自己の外に仏を信仰しながらも、自己と仏は元々同一の存在とみる。というよりも、自己の中の悟り、すなわち菩提(ぼだい)を無相の本尊とみて、自己の外に信仰する仏を有相の本尊とみる。この無相と有相の本尊を同一と悟ることが重要視されるのである。



 根来寺のご本尊はやはり巨大な大日如来。それも私には仕事先の社員さんの顔に似ているように思えて、妙な親しみを感じてしまった。パッと見た時の印象は平安時代の作風だったと思うが、今ではすっかり忘れてしまった。それでも素晴らしいご本尊だと思った。

 根来寺には、日本一大きな大塔があり、さすがに見応えがある。1547年のものである。古い木造建築の渋さには強烈な魅了がある。また大塔の中の内陣は上から見て円形であり、それを囲む何枚もの障子は程よく丸まっている(?)。今まで曲がった障子を見たことがなかった私は衝撃を感じた。

 この世にこのような障子があったのか。もしこの曲線が少しでも狂ってしまえば、この障子は引っかかって、開かなくなってしまうのである。なんという恐ろしいことだろうか。まったくこの障子は絶妙なのである。

 絶妙な障子……。驚いていたのは私だけではなかった。同じ時に訪れていた親子連れもまた、この障子に尋常ではない衝撃を受けていた。

 根来寺、非常に魅力的なお寺であった。高野山に行く時には是非根来寺にもお立ち寄りを……。

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