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神奈川 円覚寺

★★★★

 鎌倉の円覚寺について、色々と歴史を語るべきなのかも知れない。しかし、ここは禅寺であるので、この機会に、もう少し内容のあることについても述べておきたいと思った。



 円覚寺に訪れた時、初めて本格的な禅寺を見て、非常に興奮を感じたのを覚えている。円覚寺の持つのんびりとしながら気品のあるのに酔いしれた。もしかしたら京都に訪れる前だったからこういうことを思ったのかもしれない。それでも、京都の禅寺のいくつかはなんとなく気取っている気がして、あまり好きにはなれなかったので、最初に円覚寺を訪れて良かったと思っている。

 今では無くなってしまったが、景色の良い高台に茶店があって、そこで生姜入りの甘酒を飲んだことがある。この甘酒が美味しかった。また飲みたいがこの前行ったら甘酒が無くなっていた。泣きたい。

 鎌倉駅周辺よりも北鎌倉駅周辺の方が好きである。あまり人がいないから、のんびりできるし、散歩コースとしては杉本寺ぐらいまで歩きたいものだ。杉本寺もいいお寺だ。



 人間には煩悩というものがある。煩悩とは欲望とか、固定観念とか、強迫観念のような、人間の精神を束縛し悩みを生み出す種のことである。しかし、こうした束縛を生み出すのは、他でもない己自身である。この煩悩を断つことが、初期の仏教では最終目標とされていた。ところが、大乗仏教は究極的には、煩悩即菩提ということを語るようになった。つまり、煩悩から離れた境地が菩提(悟り)なのではなく、ふたつは実は同一なのだという。このふたつが同一であることを悟るところに、まさに菩提があるのだという。

 これは何か、煩悩を所有できないということも実は不自由で、束縛なのであり、真の自由なる境地は、無相の所有というものなのである。すなわち、人間らしい感情を所有しながらも、その所有は形なき所有であり、いつでも自由に捨てられるものである。この煩悩とか菩提とか、そういうものにとらわれぬところに中道があり、その清らかで自由な欲求と感情をもって、活き活きと生きることは素晴らしいことだとそういうのである。

 これこそ、生命の喜びであり、大乗仏教のひとつの到達点であった。この生命の喜びがないことに、それ以前の仏教の問題があったと大乗仏教の論者は語るのである。

 すなわち、迷い苦しむとか、多感な感情というものが一切取り逃れた人生は、それそのものが虚しいのである。そうであるから、大乗仏教は煩悩即菩提という道を歩んだのである。

 それと同時に、迷妄の中に菩提を見出すことは、在家主義の北伝仏教には必然の道であった。

 また、このように束縛を離れた、すなわち浄化され高められた欲求や感情こそ、いつしか慈悲の衝動を生むこととなるのである。



 煩悩即菩提については、これからも調べてゆきたいと思う。

 ただ、人間であるからには、苦しみや迷いがあって、それで良いのだと思う。そして、そういうところに人間として大切なものがあるのだとしたら、僕は素晴らしいことだと思う。山の中にひとりで座禅するよりも、人間の汚濁の中で、それでもなお、直向きに生きてゆく中に、悟りというものがあるのだとしたら、それは素晴らしいことだと思う。だから、わたしはあの維摩居士が好きなのかも知れない。

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