黒犬とちよがみ
大学二年の秋のことである。故郷を離れて東京の大学へ通う太野ヤスマは、その日黒い柴犬を拾った。
拾ったというよりは懐かれたといった方がより正しい。
アルバイトからのいつもの帰り道、古びた民家のすきまを縫うようにして伸びる石造りの道路を、お気に入りの音楽をかけながらありていると、足下に何かしらの気配を感じ取った。ひたっと立ち止まって注意深く周囲をうかがう。
足に何かすりすりする感触。まだ夕暮れ時のそこには、黒い毛むくじゃらの生物が、ヤスマの足にひっついていた。
音楽を切って再生機を鞄に突っ込む。しゃがんで頭を撫でてやると、嬉しそうに尻尾がぶんぶん振り回された。調子に乗ってヤスマの膝に前脚を置き、犬は催促するように鼻先でヤスマの手をつっつく。
アパートに到着するまでには飽きてどこかへ行くだろうと思ったらそれは甘い考えだったようで。結局黒犬はヤスマの住居まで付いてきてしまった。
幸い大家の婦人が在宅だったようで、とりあえず彼女に相談してみた。黒犬には首輪がなかったため、おそらく捨て犬だろうというのは容易に想像がついた。
里親が見つかるまでの間、飼っていて構わないという婦人の言葉に、ヤスマは大きな安堵を覚えた。
(……いや、このアパートってペット飼ってもよかったんだよな?)
入居一日目にきっちり目を通したアパート規則には、そんなことが書かれていた気がする。
(うーん……俺はいいんだけど、あいつは大丈夫なのかな)
ヤスマは汚い黒犬を抱えながら、部屋までの階段をあがっていった。
「おかえり、ヤスマ。変な拾い物をしたみたいだね」
開口一番、ルームメイトはそんなことを言ってのけた。
「ただいま、レイ。拾うつもりはなかったんだけどな、妙に懐かれた」
「ああ、きみは動物にはよく好かれるよね。それでどうして人間には毛嫌いされるんだろう」
「やかましいわ」
鞄をベッドに放り投げ、ヤスマは浴室に犬を連れて行く。居間でのんびり紅茶をすするルームメイトは、優雅に千代紙をいじくっていた。
ヤスマと部屋を共有している相棒――日枝レイ。大学からの通学環境や部屋自体の住み心地の良さの割には良心的な家賃で住まわせてくれる破格のアパート。多少貧乏なヤスマにとっては天の恵みに近い物件だった。
この部屋――712号室を借りるたった一つの条件が、この日枝レイとルームシェアをするというものだった。
それくらいならと快諾して間もなくは、ヤスマの心は後悔だらけであった。とにかくこのレイは奇妙な男なのだ。
目にしたもの、耳に聞いたものをひとつひとつ全て覚えて忘れることがない。また誰に対しても打ち解けるのは早いが、若干癖のある性格をしていた。口調も気取って人を選ぶ。
好奇心旺盛でとにかく刺激を求める。大学の授業は三日に一コマを出し抜く。それでいて成績は優秀なのがヤスマを苛つかせた。
退屈が天敵だと言ってはばからず、刺激を求めて街を散策する。行く先はデパートだったりスーパーだったり、個人経営のアンティークショップだったり工事現場だったり、いわくつきのスポットだったりと多岐にわたる。帰りが深夜になったときはさすがのヤスマも激怒した。帰りが遅くなるなら必ず連絡するようにしかりつけた時のレイは、珍しくしぼんでいた。
何よりレイが浮いていたのは、彼の目によるところが大きい。レイは人間ではない何か別の生物を視ることができるという。それは幽霊だったり怪物だったり、あるいは日本に八百万とおわす神であったり。
ヤスマはそれを当初嘘だと思っていたが、今ではその考えを改めている。レイは嘘をついていない。本当のことを言っているだけだ。レイの手に触れると、一時的にレイの視ている人ならざる者達が、ヤスマにも視認できたからだ。特に夏休みの帰省で巻き込まれたささやかな騒動がとどめになったかもしれない。
(……っつーか、自分たちの話なんて全然してないもんな、俺たち)
婦人から借りた動物用の石鹸で、ヤスマは黒犬を洗ってやる。シャワーで綺麗に泡を落とし、ドライヤーで乾かしてやると、さっきの薄汚さはもののみごとに消え去った。
「ほう、柴犬か。それも黒色とは、初めてみたよ」
千代紙を机に滑らせ、レイは綺麗になった黒犬を指先でなでる。
「俺も。柴犬っつったらたいがいは茶色を想像するよな」
「まあね。でもこっちはレア素材を手にいれた気持ちがして悪くない」
「犬は素材じゃねーぞ」
「もののたとえだよ。さておき、大家には話したのかい?」
「里親が見つかるまで面倒みていいってさ。というか、このアパートはペットも許可されてたらしい」
「じゃあ里親が見つからなくても問題ないわけだ」
「餌代でバイト代が消えるわけだ」
「それもいいねえ」
「いいわけねーだろ」
黒犬はレイの手を逃れ、ヤスマの膝に転がっていった。「お」とレイがこぼすも遅く、犬はヤスマに撫でられると目を細める。
よしよしと、ヤスマの手つきは慣れている。
「ずいぶん扱いがわかっているね、きみ」
「奈良にいたころ、近所の爺さんが犬とか猫とか動物飼っててな。よく触らせてもらってたんだ」
「へえ、きみから故郷の話を聞くことができるとは」
「爺さんは別だよ」
ヤスマは自分から故郷のことを話したがらない。家族のことももちろん、どんな環境で育ってきたかも、故郷の友人がどんな風であるかも、上京してから一度も喋らなかった。
「うーん、どうも動物というのは扱いが難しいね」
レイは床に寝っ転がって犬に手を伸ばす。黒犬はレイの手に気づいて、そちらに視線を映した。それでもヤスマの膝は譲らない。
「珍しいな。妖怪とか幽霊とかには自分から突っ込んでいくお前が、小さい犬にはたじろぐんだな」
「彼ら人知を超えたものたちとちがって、犬や猫の声はわからないからね。何言ってるかわからないってのは恐怖でもある」
「へえ、意外。お前にも苦手があるんだ?」
「苦手じゃない。扱いが難しいだけだ」
「はいはい」
その後、ひと月が経過した。アパート内外にかかわらず、拾った黒犬の里親を募集したが、めぼしい人物は現れなかった。
大家も心配して知り合いに声をかけてくれたらしいが、見つからなかったという。
レイとヤスマのどちらかが部屋にいる場合は、残った方が犬の面倒を見て、二人とも大学やアルバイトで外出しているときは大家に任せていた。
二人して大学から帰ったあと、犬の餌を片手に黒犬を迎えに大家のもとへ行くと、黒犬の目が輝き尻尾がぶんぶん振り回される。大家の手から離れていい子にお座りし、ヤスマに頭を撫でてもらうのを待っている。
とりわけ黒犬は、ヤスマを無条件で気に入っているようだった。最初に拾って撫でたのがよかったのか、風呂に入れてくれたり餌を用意したり何かと面倒を見てくれるヤスマを、主人と認識したらしい。レイはその次のようだった。
「なあ、里親が現れないなら、俺たちで飼うか?」
大学生二人と犬一匹、夕飯を済ませて食後のささやかなティータイムとしゃれ込んでいる。ヤスマは犬用のおやつを黒犬にやっている。ちゃんと待てからお座りまで、一通りの躾は覚えさせた。黒犬はヤスマを主人として完璧に認識し、彼の指示にはきちんと従う。待てと言ったら待つ。お座りと言ったらぺったんと座る。お手と手を出せば前脚を乗せ、伏せと言えばさっと伏せる。その動作はきびきびとしていたが、耳がひこひこ揺れたり尻尾が振るわれたりと、感情は隠し切れないようだった。
「ほう。なかなかいい考えだ。ペット費用くらいもまかなえるほどバイト代は潤っているしね。ま、僕は乗り気じゃないけど」
「うーん……となると、地道に里親探しは続けるか……」
黒犬を抱き上げ、ヤスマは唸る。その返答に、レイが首を傾げた。
「いいのかい? その子、きみがお気に入りのようだよ。きみだってその犬がお気に召しているようじゃないか」
「そうだけどさ、レイが嫌なら俺たちで飼うわけにはいかんだろ」
「……。きみ、僕のことを気にかけていた……のか?」
レイの眼差しはヤスマに向けられる。それは意外な答えを手に入れたといわんばかりの、素直な驚きで満ちていた。
「いや、普通だろ。動物苦手だったりアレルギーもちだったりしたら大変だし、安らぐはずのアパートで気が落ち着かないんじゃどうしようもないし」
「あー…………。いや、ごめん。素直にびっくりした。きみのことだから反発してでも飼うんだと思ってた」
レイはその表情のまま、口元に手をあてて少し目をそらす。
「お前俺を何だと思ってんだ。共同生活するなら相手のことを尊重するのは普通だろ? お前じゃないんだし」
「ああごめん。見直そうと思ったけど取り消すよ。やっぱいつも通りのきみだったね」
「やかましい」
ヤスマは軽くレイを小突く。レイはようやく楽しそうに笑って、机の上にばらまかれた千代紙で戯れる。
ふと、黒犬がヤスマの膝から離れた。「あれ」とヤスマがこぼす。
「うん?」
黒犬は遠慮がちに、レイの左腕に前脚をぺすっと当てる。構え、ということなのか? レイは注意深く犬を見守り、おそるおそる右手を伸ばしてみた。
犬の頭にぽすっと触れた手をわさわさ動かしてみると、犬は甘んじてそれを受け入れる。
「……」
レイは答えを求めるように、ヤスマに目を向ける。ヤスマは苦笑して肩をすくめるだけだった。
「……犬というのも悪くはない」
「だな」
黒犬はレイも主人と認めたらしかった。レイは楽しそうに黒犬を撫でる。
「あ、名前どうすっか」
「ん? ああ、そういえば……名前がなかったね。どうしようか」
「うーん……名づけって緊張するよな。いい加減な名前じゃかわいそうだし」
「そうだねえ、いつか訪れる名づけの練習と思えば」
「来たらいいんだけどな」
レイの冗談をつつきつつ、ヤスマは割と真剣に犬の名前を考えていた。何かヒントになるものはないかと部屋中に視線を泳がせる。
泳いだ先には、レイがいじくり回していた千代紙があった。
「……ちよ」
「ん?」
「千代、とかどうかな」
「ふん……いいね、じゃあ、千代助とかどうよ?」
「はは……勇ましくていいな。じゃあ千代助で決まり」
どうだ? とヤスマは黒犬――千代助に聞いてみる。千代助は元気よく吠えた。
「いいってさ。よかったねえ、千代助」
レイが千代助の背中を撫でる。尻尾がふわふわ揺れた。
「ふふ……この分だとヤスマが猫も拾ってきそうだ」
「当分ないよ。猫には見飽きてる」
「へえ。アルバイトの帰路は野良猫であふれているわけだ」
「……まーな」
猫はおまえだ、と言いたい言葉を飲み込んで、ヤスマは机の千代紙を一枚拝借し、鶴を折った。
ルームシェアしている大学生二人と黒い柴犬ちゃんの出会い話になります。猫でもよかったんですがね、もうすでに猫がいるからね。しかたないね。