会話
視界に、一筋の光が差した。徐々に拡がり、空間に満ち溢れて形を伴った。
凪悟は目を覚ます。身体を起こし、周囲を見渡す。縦横に席が並んでおり、学生服を纏う男女が各々腰を降ろすか、もしくは座席に両膝を乗せて、前後の相手と会話していた。
「余りはしゃぐと、危ないぜ」
呟いてから、首を傾げた。細かな振動に気付き、左を向いてみる。窓に縁取られた景色は、急速に流れていた。額を指で弾く。
「バスの中、か」
思考が整っていく。悟の高校では、高二の夏、三泊四日程度の合宿を、毎年行っているのだ。特別行く意欲がなくとも、悟は断るだけの術も、度胸も持ち得なかった。
起きるか、眠るか。悟としては後者へ傾いている所ではあったが、眠るまで、色々と考えてしまうのも億劫だ。なけなしの意欲を振り絞り、柄でもなく、両の頬を張った。
「やる気、十分?」
響いた声に、首が右へ向く。隣の席で、中性的な美貌が、こちらを見上げていた。若干、気持ちが前向きになってくる事を自覚しながら、相手の名を呼ぶ。
「希」
南希は頷いて、顔を俯ける。姿勢良く整えた両膝の上に、分厚い文庫本が開いた状態であり、希はまるで計った様な速さで頁をめくり始める。
「あっさりだな」
呻く。ほんの少し、希の瞳がこちらに揺らいだ様に錯覚する。
我ながら幸せな男だ。溜息を大げさについてみせ、背もたれに身体を預ける。更に、ごく自然に横へ向く。限界まで目を細めると、さっそく観察を始める。
学校一小柄な体躯が可愛らしい。短い髪は、珍しい白銀であるが、本人は気にしておらず、悟としても、綺麗なものでしかない。下には、西洋人形を思わせる、端正な容貌があり、冷たくも、すました所が実に微笑ましい。
視線は、首筋を通過すると、更に下降する。半袖の内側を見通す為に、全力を注ぐ。
瞬間、顔面に衝撃が走った。
勢いで仰け反り、窓へ危うく衝突する所を堪える。恐る恐る、視界を開く。
極めて分厚い本、という名の凶器を、下から振り抜いた姿勢の希が、若干冷えた瞳を向けていた。
「良い加減にして」
答えるより先に、悟は顔をこわごわと摩った。感じた通り、角ではなく面だった。十分手加減されていると考えれば、嬉しいものがある。慣れとは、つくづく怖い。
「ちょっとした挨拶だぜ。友情の」
「親友とやらの身体を視姦して、悦に入るのが、君の友情?」
揶揄する様な声が、悟の耳を震わせる。
十分、人間味がある。そんな感想を、表情からでも察したのか。希は呆れた風に溜息を吐いて、構えていた腕を下ろす。前へ姿勢を戻す。
逆に悟が焦る。もう怒ってはいないらしい。だが、折角構ってもらえるのが、元へ戻られても困る。願いを知ってか知らず、本から目を離さないものの、相手が訊いてくる。
「何?」
問われ、ついに決意する。狭い座席の中とはいえ、通路側であるので、希が若干有利ではあるが、躊躇わない。思考を終え、身体に力を蓄え、いざ希に飛びかかろうとする。
だが、気付く。息遣いが、生で感じ取れた。頁をめくる音も、はっきりと音を立てて聴こえる。全て、まるで誰かに届かせる様に、わざとらしい。
悟は一度力を抜き、深く席に沈みこむ。次に、両腕を頭の後ろに組むと、話しかける。
「なあ」
少なくとも、この雰囲気では、無視される事もないだろうと、言葉を続ける。
「お前の事、結構気に入っているぜ。その、友人として」
頁をめくる手を止め、希はこちらを向く。緊張しながら、答えを待つ。
希はあっさりと告げた。
「私は、君の友達なんかじゃない」
ろくに思考も働かず、悲しみよりも、只力が抜け、心が急速に萎えていった。
希は特に慰めようせず、動かない。じっとこちらを見る。
「じゃあ俺は。お前の何だ?」
すると、首を捻る。正直な所を言ったものの、適当な言葉が出てこないのか。邪険にされても良い等の、捨て鉢な考えに対して、思いついた様に人差し指が立つ。変化に乏しい表情にも、答えを得た安堵と、いまいち納得できないという疑いが窺えた。
「恋人?」
「は。ふぁ?」
可笑しな声が出る。動転し、目を逸らす。呼吸を整えた後、そっと隣の様子を窺う。
すでに希は目を閉じ、背後の綿に半ば寄りかかっていた。
「今のは、冗談、か?」
瞳が開いた。悟の狼狽する様子を見て、初めて淡く微笑んでみせる。
「知らない」
意地悪な奴だ。もう追求しない。決して調子には乗らず、安易に踏み込む事もない。曖昧にして居心地の良い所が、切なくもたまらなく良かった。
しばらく感慨に耽り、希を見つめている間にも、更に数分が経過していく。
希の語調が、激しくなっている。
「視線が粘着質。むずむずするから。応えてあげないと、流石に寝覚めが悪い」
冷静な様で、一度火がつけば、悟の行状を責め立ててくる。
口にする言葉も、単に厳しいのと、若干きわどいものも飛び出しているのだが、果たして気づいているのか。だが言うまい。聴けば気持ちが沸き立つからであって、決して心地よく興奮するからでもない。
「放っておけないお前は、優しいぜ。希」
常の如く前向きに考え、親指を立てれば、相手の瞳が細められる。手も口も出さない代わり、ひたすら注視してきた男によって、現在ご機嫌斜め中であった。
「考えてみろ。合宿という行事。そう都合良く眠れるとか、虫の良い話だと思わないか?」
好きな程睡眠を取った人間の言える台詞でもない。案の定、強く睨まれてしまう。
「そ、それに。粘着質、なんて言われた事ない。また、男児たるものは常に狼なのさ」
「言われずとも知る。また、君と他男子を一緒にしない。始末の悪さで、きっと一番」
決めつけられれば、少々反抗したくなる。引いていた身体を持ち直し、一度希を真剣に見つめ返す。
単なる嫌悪というより、ほんの少しの戸惑いが、希の表情に浮かぶ。
余人なら、見逃すほどの変化だろう。結局、そっぽを向かれる。悟如きが、希の心を乱せた等、本当の所考えもしないものの、真面目に避けられた様で、逆に胸が痛む。
「くぅ。ど、どうせ、俺なんて」
「そう、落ち込まれても困る。でも、確かに、私にとって、君という人間は陰湿」
止めを刺された。意味が酷いだけ、たて続けて言われ、当然の如く心に染み入っていく。
「もう、分かったよ。おねむ、の邪魔をしたのは謝るからさ。どうか、許してくれや」
「なら、おねむ、言わない」
厳しく返す希へ、考えた末、ふざけたふりでも言ってみる。
「お前だって、その、俺の事を見ているとか」
言って、後悔する。恥ずかしい。例え友人同士だとして、大胆過ぎる。
案の定、軽蔑したものとは異なりつつ、当然の事を訊かれた様な、可笑しな顔をされる。
「今更。真っ当な友人もおらず、日頃机にうつ伏せ、時折恨めしげに顔を上げる姿は、余りに哀れで、私まで鬱になってきてしまう」
散々言われ、さすがに落ち込みもする。
「憂鬱だぜ。すれ違いが辛い。想いは所詮届かないのか」
馬鹿な事を言いながら、窓の方を再び向く。途中、希が悟の動きを目で追っていた事を知っており、妙に満足してしまったので、更に哀れっぽく愚痴る。
「所詮野郎ばかり、に、あっ」
言い終わらぬうち、脳裏に閃光が奔る。すぐに振り返る。隣の席の希は、物言いたげな視線を向けていた。辛うじて良い方に取るとすれば、憐憫の眼差しと言えるのか。
「な、何だよ。これは?」
陳腐な表現であったものの、じりじりと強い視線を感じ始めたのである。複数でもあり、あらゆる方向から、悟一人へ向けられていた。
「ふぅ」
希が息を吐く。おもむろに文庫本を閉じると、バックへと詰め込んでいく。膝の上、体に不釣合いな大きめの袋を抱えた姿が、慌てる悟の目にも可愛く映る。
「お、おい」
悟の問いかけに、上手く本を入れ終えたらしい希が、やっと答えてくれる。
「そろそろ着くから。良かったと思う。気付いたのが、思い出したのが今で」
ろくに景色を見ていない癖、良く分かる奴であった。
「気付く?」
面倒そうな表情をしながら、希はくい、と、上方を指で指し示した。
手を伸ばし、ようやく背もたれの上部に届くとは、呆れた幼児体型だ。そう思いながら、悟も視線を上げる。
「ぎゃあ」
発見し、思わず悲鳴を上げた。天辺に、男の顔の、上半分が覗いていた。その分厚い両手は、背もたれの上部を強く掴んでいる。腰が引け、窓に背中をへばりつかせた悟であるが、拍子に見てしまう。
澄ました表情の希の傍、また違う男の顔が抜き出ており、更に正面、通路を挟んだ席からも、喰い入る様に男達が悟を見つめていた。
「ああ、そう、か。糞ったれが」
全てを思いだして、呻く。希が淡々と告げてくる。
「忘れないで欲しい。少しばかり妄想に浸るのは構わないけれども、君の現実は何一つ」
言葉を遮る様に手を振り、力なく笑った悟である。
「これも知恵さ。変わらない現実は、精々ぼかして暮らすのが一番だぜ」
「だから、逃避し、妄想する。けれど、決して彼等を無体に扱おうとはしない。中途半端な君の、仮にも目付役である、この私の負担も考えて。違う?」
若干強めな語気に、理不尽なものを感じつつも、幾分低姿勢になってしまう。
そんな悟に対し、希は躊躇いなく告げる。
「『男殺し』の凪、悟君?」