第005話 泥棒猫
後宮に入って三日目の朝、事件は起きた。
「……猫、でしょうか?フローラ様」
「どうみても…猫、よね?エミリア」
「フローラ様、エリーでございます。お間違いにならないで」
「あら、ごめんなさい。でも今は誰もいないわよ?」
「油断は禁物ですわ。気を抜かないで。ここは中庭なのですから」
「そうね」
「そうです」
「そうよね。そんなことより……、アレは猫で間違いないかしら」
「ええ、猫で間違いないと思いますわ」
フローラに与えられた部屋は、テラスから中庭へと出られるようになっていて、今はフローラと二人でその中庭をお散歩中だ。
まだ朝が早いせいか、そこには誰の姿もなく実質フローラとエミリアの二人だけである。
どうやら王都のお姫様方が起き出すのは12時を回る頃で、朝の7時に目を覚ますエミリアたちは、かなりの異例だといえた。
田舎育ちのエミリアたちにはそれが普通なのだが、王都育ちのお嬢様たちにはこの常識が通じないらしい。
でも、そのおかげで周りを気にすることなく庭園を見て回れるのだから、早起きもなかなか悪くない、とエミリアは思った。
城の庭園は、『花と貿易の国』といわれるだけあって、かなり見物だ。
しっかりと管理された庭園は、色から花の配置、バランスなどがよく考えられていて、見るものを魅了する程の美しさを誇っていた。
そんな庭園を歩いていた時だ。
突然二人の目の前を、白い物体が通り過ぎた。
そしてそれが、とてもきれいな毛並みを持つ猫だった…ということまでは特に問題はない。
しかし、その猫がくわえている物に問題があったのだ。
「ねぇ、エリー?あの白猫がくわえている物に見覚えない?」
「ある気がしますわ」
「よね?」
「ええ、だってアレ……私がさっきまで首から下げていたヤツですもの!」
言うが早いか、エミリアは猫がこちらを向いて止まっている隙に駆け出した。
猫が口にくわえている物は、エミリアお気に入りのネックレス。
二年ほど前、フローラからプレゼントされたものだ。
どうやらさっき目の前を通り過ぎたあの瞬間に盗まれたらしい。
現に、今エミリアの首には何も下げられていないのだから、まず間違いないだろう。
死んでも取り返す!
エミリアの瞳に、炎がともった瞬間だった。
「ちょっとエミリア、取り返すつもりなの!?」
「当たり前でしょ!昼食までには戻るから、お姉さまは先に部屋に戻ってて!」
自らがエリーという侍女であることも忘れ、エミリアはフローラの側を離れた。
猫は、エミリアが駆け出すのと同時に向きを変え、走り出す。
「こら待て!泥棒猫ー!!」
思いのほか猫の足は速く、そしてすばしっこかった。
エミリアが走りつかれて立ち止まってしまうと、猫もソレに合わせて立ち止まり、ちらっとこちらの様子を伺ってくる。
そしてエミリアが走り出すと、猫もまた走って逃げるのだ。
まるでエミリアをからかって遊んでいるような、そんな錯覚を覚える。
そして、そんな追いかけっこを続けること15分。
猫は、ある木の傍まで行くと足を止めた。
やっと観念する気になったかと思ったら、その木には何者かが腰を下ろしていた。
(誰かいるの…?)
エミリアがそっと覗くようにして見ると、そこには黒髪の青年が分厚い本を片手に猫の頭をなででいた。
とりあえず、……驚いた。
自分を棚に上げて言うのも何だが、この国で黒い髪を持つ人間はとても珍しい。
エミリアの銀とは違って、青年の黒は『闇』を表し、この国の人間はその髪色を持つ者を忌み嫌った。
そして、黒い髪を持って生まれる子供は『悪魔の子』と蔑まれるのだ。
「クー、お前また何か盗んできたのか?いい加減やめろと言っているのに……」
黒髪の青年の言葉に、猫は「ナー」と甘えた声を出す。
わかっているのかいないのか、いまいち理解しにくい返答だった。
「いいから持ち主にちゃんと返して来い。いいな?」
「ナーナー」
どうやら猫はエミリアのネックレスを青年にあげたいらしかった。
でも、そんな事してもらっちゃ困る。
それは私の、命よりも大事なものよ!!
「少しよろしいでしょうか?」
エミリアは、木陰から一歩出ると、そう声をかけた。
すると青年は驚いたようにこちらを振り返り、エミリアを凝視する。
「……銀色の髪……?」
青年の瞳は、吸い込まれそうなほど透き通った青空の色をしていた。