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お疲れのあなたに、魔法のスパイスを。〜秋色に染まる異世界喫茶の美味しい日常〜  作者: あぬん


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「君の魔法には、物語がない」――色を持たない天才魔法使いは、紅葉の森へと追放される

はじめまして。本日から連載を開始いたしますあぬんです。

本作は「小説家になろう」公式企画『秋の文芸展示2026』への参加作品です。

秋の夜長に、温かい紅茶を飲みながらゆっくりとページをめくりたくなるような、少し不思議で優しいファンタジーをお届けできればと思います。

どうぞよろしくお願いいたします。

「君の魔法には、物語がない」

王立魔法学園の最上階。冷たい大理石が敷き詰められた執務室で、威厳ある学園長は重々しい声でそう言い放った。

「アルト・ウィーバー。お前が歴代最年少で最高位の魔導書を読み解き、数々の呪文を極限まで最適化した功績は認めよう。だが、お前の魔法はただの『数式の羅列』だ。そこには美しさも、感情も、他者の心を震わせる力もない。無駄がないだけで、全く美しくないのだよ」

机の上に投げ出されたのは、アルトが提出したばかりの卒業論文と、学園からの『追放』を言い渡す書類だった。

窓の外では、王都の華やかな街並みが春の陽光に照らされている。しかし、アルトの心の中には何の感情も湧き上がらなかった。

(……魔法に、物語?)

アルトには理解できなかった。

魔法とは、魔力を効率よく変換し、事象を書き換えるための技術だ。詠唱の無駄を省き、威力を最大化し、誰もが安定して使えるようにする。それの何がいけないのだろうか。

だが、この国において魔法は『芸術』であり『権威』だった。貴族たちは炎の魔法にどれほど華やかな火の粉を舞わせるかを競い、水の魔法でいかに美しい幻獣を形作るかに心血を注ぐ。

ただ最短距離で標的を穿つだけのアルトの魔法は、「無機質で気味が悪い」「下民の泥臭い技術」として、ずっと忌み嫌われてきたのだ。

「荷物をまとめろ、アルト。今日をもって、お前はこの学園を去るのだ」

反論する気すら起きなかった。

アルトは静かに頭を下げると、その日のうちにたった一つの鞄だけを持って、華やかな王都を後にした。

     * * *

王都を離れ、あてもなく歩き続けて幾日が過ぎただろうか。

気がつけば、季節の境目すら曖昧な、深い森の中に迷い込んでいた。

「……ここは?」

アルトは思わず足を止めた。

先ほどまで青々としていた木々は、いつの間にか見渡す限りの鮮やかな赤や黄色に染まっている。足元にはふかふかの絨毯のように落ち葉が敷き詰められ、歩くたびにカサカサと乾いた、心地よい音を立てた。

一年中、常に紅葉が舞い散る不思議な森。王都では決して見ることのできない、圧倒的な『秋』の景色がそこにあった。

琥珀色の木漏れ日の中を、導かれるように奥へ奥へと進む。

やがて、巨木に囲まれた少し開けた場所に、それはひっそりと建っていた。

黒煉瓦と蔦で覆われた、豪奢でアンティークな洋館。

屋根には色褪せた時計塔があり、ステンドグラスの窓からは、温かな蜂蜜色の灯りが漏れ出ている。周囲には甘い金木犀の香りと、古い紙が持つ独特の芳香が漂っていた。

門扉の横には、錆びついた真鍮のプレートが掲げられている。

『秋の魔導書庫』

吸い寄せられるように重い樫の木の扉を押し開けると、チリン、と澄んだベルの音が鳴った。

「――おや。珍しいですね。生きた人間のお客様とは」

吹き抜けになった広大なエントランス。見上げるほど高くそびえる本棚の群れを前に圧倒されていると、ふいに頭上から声が降ってきた。

バサバサと羽音を立てて舞い降りてきたのは、一羽のふくろうだった。

いや、ただの動物ではない。羽の一枚一枚が真鍮と歯車で精巧に作られた、からくり仕掛けのふくろうだ。金色の義眼が、ジリジリと音を立ててアルトを見つめている。

「ここは『秋の魔導書庫』。世界中からこぼれ落ちた『忘れられた記憶』や『行き場を失った感情』が、一冊の本となって流れ着く場所です。……して、旅のお方。あなたは何を探しに?」

「俺は……」

アルトは乾いた唇を開いた。

「俺は、追放された魔法使いだ。自分の魔法には、色も、物語もないと言われて……行き場をなくして、ただ歩いていた」

ぽつりぽつりと、自分でも驚くほど素直に言葉がこぼれた。

からくりのふくろうは、コト、と首を傾げた。

「ほう。色がない、物語がない、ですか」

ふくろうが羽ばたくと、周囲の本棚から何十冊もの本がふわりと宙に浮かび上がった。

本は自らパラパラとページをめくり、そこから無数の淡い光の粒が溢れ出す。それはまるで、秋の夜空に舞う蛍のようだった。

「ここは感情の吹き溜まり。未完成のまま放置された手記や、誰にも読まれることなく朽ちた記憶で溢れています。それらはあまりにも重く、悲しく……時折、こうして暴走してしまうのです」

ふくろうの言葉通り、宙を舞う本たちからは微かなすすり泣きや、ため息のような声が聞こえてくる。

「前の司書が寿命でこの世を去ってから、百年。私はずっと、この膨大な『未完成の物語』たちに寄り添い、整理し、彼らの人生の続きを紡いでくれる新しい司書を待っていました」

ふくろうは静かに滑空し、アルトの肩に止まった。

「無駄を省き、物事の本質だけを見抜くあなたのその目は、決して『無機質』などではありません。それは、誰かの複雑に絡み合った悲しみを解きほぐすための、静かで優しい視座です」

「俺の、魔法が……?」

「ええ。あなたにしか紡げない魔法(ものがたり)が、きっとあるはずです」

アルトは、宙に浮かぶ一冊の古い本にそっと手を伸ばした。

表紙に触れた瞬間、温かくて、少しだけ切ない『誰かの記憶』が、手のひらを通じて流れ込んでくるのを感じた。王都では決して感じることのなかった、血の通った温もりだった。

「……やってみるよ」

アルトは本を抱き寄せ、ゆっくりと頷いた。

「俺の魔法で、この未完成の物語に『続き』を書けるなら。彼らが、安らかに眠れるように」

窓の外では、夕暮れの風に吹かれて紅葉が静かに舞い散っていた。

エリート街道から転落し、すべてを失った天才魔法使い。彼が本当の魔法の意味を知り、自身の人生という名の物語を書き始めるのは、ここから…だ。

***

「では、まずは正式に自己紹介をしておきましょう。私はこの『秋の魔導書庫』の案内人であり、蔵書管理を担うからくり鳥のヴェラムと申します」

からくりのふくろう――ヴェラムは、羽を優雅に畳んで一礼した。

「新任の司書様。あなたのお名前は?」

「……アルトだ。アルト・ウィーバー」

アルトが名乗ると、ヴェラムは満足げに金色の義眼を瞬かせ、書庫の奥へと飛び立った。

彼についていくように、迷路のように入り組んだ巨大な本棚の間を進む。ふんわりと漂う古いインクと羊皮紙の匂いが、アルトのささくれ立った心を少しずつ落ち着かせていった。

やがて案内されたのは、ステンドグラスの窓辺に置かれた、重厚なマホガニーの執務机だった。

そこには真っ白な原稿用紙、細工の施されたガラスペン、そして星空を溶かしたような銀色のインク壺が用意されている。

「さあ、アルト様。まずはあなたが先ほど手に取ったその本――その未完成の物語に、結末を与えてみてください」

アルトは手元の古い本に視線を落とした。

表紙には文字がなく、ひどく擦り切れている。そっとページを開くと、そこには文字の代わりに、どす黒い靄(もや)のようなものが渦巻いていた。

それは言葉にならない「未練」の塊だった。触れた指先から、凍えるような寒さと、胸を締め付けられるような焦燥感が流れ込んでくる。

(……これは、猛吹雪の記憶? いや、誰かに何かを届けようとして、途中で倒れてしまった人間の後悔か)

ヴェラムが静かに解説する。

「それは、数百年前に雪山で遭難した名もなき配達人の記憶です。彼は故郷に残した家族へ最後の手紙を届けるはずでしたが、叶わなかった。その強い無念が魔力と結びつき、こうして終わらない悲しみのループとしてこの書庫に迷い込んだのです」

本の中の靄は次第に激しさを増し、アルトの手を凍傷のように白く染めていく。

王都の魔法使いたちなら、ここでどうするだろうか。おそらく、華々しい炎の魔法や光の魔法をこれ見よがしに展開し、この暗い靄を「浄化」という名目で焼き尽くしてしまうはずだ。彼らにとって魔法とは、己の力を誇示するための芸術に過ぎないのだから。

だが、アルトの魔法は違う。

「……無駄だらけだ」

アルトは静かにつぶやき、ガラスペンを銀色のインク壺に浸した。

「悲しみを焼き尽くしたところで、根本の式(もんだい)は何も解決していない。この記憶が求めているのは、浄化なんかじゃない。ただ、手紙を目的地へ届けるという『結果』だけだ」

アルトの目が、魔法使いとしての冷徹な光を帯びる。

彼はページから立ち昇る靄の動きを瞬時に計算し、魔力の流れを読み解いた。そして、吹雪の中で途絶えた配達人の「想いの座標」を、己の頭脳の中で正確に再構築していく。

ガラスペンが、空白のページに滑り出した。

『――しかし、彼の想いは雪に埋もれることはなかった。春の風が手紙を運び、故郷で待つ家族の元へ、その温かな言葉は確かに届けられた。』

アルトが書き綴ったのは、たった数行の事実。

大仰な詠唱も、派手な光の演出もない。ただ最短距離で、最も効率的に事象を繋ぎ合わせるためだけの、極めて論理的で無機質な文章。

学園長が「美しくない」と吐き捨てた、彼だけの魔法だった。

しかし――。

ペンを置いた瞬間、銀色のインクが眩い光を放ち始めた。

どす黒い靄が嘘のように晴れ渡り、ページの中から温かい春風が吹き抜ける。アルトの脳裏に、幻覚がフラッシュバックした。

それは、ボロボロになった手紙を受け取り、涙を流しながらも優しく微笑む家族の姿。そして、それを見届けて安らかに天を仰ぐ、配達人の幻影。

「ありがとう……」

どこからか、そんなかすかな声が聞こえた気がした。

光が収まると、擦り切れていた本は美しい琥珀色の装丁へと変化し、表紙には金色の文字で『配達人の春』というタイトルが刻まれていた。

完成した本はアルトの手をふわりと離れ、自ら空を飛んで、本棚の空いていた隙間にカチリと音を立てて収まった。

「……見事です、アルト様」

ヴェラムが驚きに満ちた声で羽ばたいた。

「過去の司書たちは、皆自身の感情を乗せて長い長い物語を書き足していました。しかし、あなたは余計な感情を一切交えず、ただ彼らが最も求めていた『欠片』だけを正確に埋めてみせた。なんて静かで、優しい魔法でしょう」

アルトは、自分の右手をじっと見つめた。

今まで、標的を効率よく破壊するためだけに使ってきた自分の魔法。誰からも忌み嫌われ、自分自身でも冷たい道具だと割り切っていたその力が、初めて「何かを救う」ために機能したのだ。

胸の奥に、ほんの少しだけ、火が灯ったような温かさを感じた。

「……悪くない仕事だな」

「ええ。ここは、あなたのような方にこそふさわしい場所です」

窓の外では、夕日を浴びた紅葉が黄金色に輝きながら舞い散っている。

王立魔法学園を追放されたあの日、アルトの時間は完全に止まってしまったと思っていた。けれど、この終わらない秋の森で、彼の新たな時間が静かに動き出そうとしている。

世界からこぼれ落ちた記憶たちに、優しい結末を書き記すために。

天才魔法使いアルトの、新米司書としての日常が幕を開けた。

「……とはいえ、休む暇はなさそうですね。次のお客様がお見えのようです」

ヴェラムがくるりと首を回し、エントランスの樫の扉へと視線を向けた。

チリン、と再び澄んだベルの音が鳴る。

そこに立っていたのは、一人の少女だった。

歳は十五、六だろうか。銀糸のような長い髪は泥と枯れ葉にまみれ、着ている豪奢なドレスはところどころが破れ、痛々しい焦げ跡が残っていた。裸足のまま森を彷徨ってきたのか、白い足先はひどく傷ついている。

彼女は虚ろな群青色の瞳で広大な書庫を見回し、アルトの姿を捉えると、ふらふらと覚束ない足取りで歩み寄ってきた。

「ここは……どこ? 私は……」

「落ち着いてください。ここは『秋の魔導書庫』。あなたは今、安全な場所にいます」

アルトは椅子から立ち上がり、少女の冷え切った肩に自分の外套を掛けた。

間近で見ると、彼女の肌は透けるように白く、生きている人間というよりも、精巧に作られた人形のように儚げだった。

「名前は? どうしてこんな森の奥へ?」

「名前……」

少女は自身の胸元をきつく握りしめ、苦しげに顔を歪めた。

「わからない。何も思い出せないの。ただ……炎が燃える街と、誰かが叫ぶ声がずっと頭の中で響いていて……私、大切なものを置いてきてしまった気がする……。それだけが、悲しくて、苦しくて……」

ぽろぽろと、大粒の涙が群青色の瞳からこぼれ落ちた。

彼女の背後から、淡い光を放ちながら一冊の分厚い本がふわりと浮かび上がった。先ほどの配達人の本とは比べ物にならないほど禍々しく、悲壮な魔力を帯びている。

「アルト様。彼女は『自身の記憶を代償に、強引にこの書庫へ転移してきた』ようです」

ヴェラムが深刻な声で告げた。

「あの本の分厚さからして、彼女が背負っているのは一個人の悲しみではありません。国一つが滅びるほどの、莫大な絶望と未練です」

「国が滅びる……まさか、亡国の姫か?」

アルトは目を細め、浮かび上がった本を注視した。

表紙には焼け焦げた王冠の意匠が微かに残っている。彼女が失った記憶は、あまりにも重く、悲惨なものに違いない。

「……助けて」

少女はアルトの服の裾を力なく掴み、懇願するように見上げた。

「私の中で、燃え続けるこの炎を消して……。私が誰だったのか、教えて……」

「……」

アルトは無言で少女を見つめ返した。

彼女の過去を書き換えることは、簡単なことではないだろう。配達人の時のように数行で終わるような代物ではない。彼女が背負う絶望を紐解き、その中心にある『最も必要としている言葉』を見つけ出さなければならない。

それは、無駄を極限まで省き、最短距離で目的を達成してきたアルトの魔法とは、真逆の行為だった。

他者の人生という、泥臭く、非効率で、感情にまみれた迷路へ自ら踏み込んでいくということ。

しかし、アルトは躊躇わなかった。

「……わかった。あんたの失われた記憶(ものがたり)、俺が結末をつけてやる」

アルトは少女をふかふかのソファに座らせると、再び執務机に向かい、ガラスペンを手にした。

銀色のインクが、月光のように静かな光を放つ。

「俺の魔法は、無機質で、冷たくて、無駄がない。……だが、だからこそ、誰よりも正確にあんたの『本当の願い』を導き出せるはずだ」

王立魔法学園の学園長は間違っていた。

魔法に物語がないのではない。物語を必要とする者に、魔法を届けるのが彼の役目だったのだ。

アルトは深呼吸をし、焼け焦げた王冠の意匠が残る本を静かに開いた。

途端に、激しい炎の熱気と、人々の悲鳴がアルトの脳内に雪崩れ込んでくる。

「さあ、始めようか。――あんたが忘れてしまった、あんた自身の物語を」

紅葉舞う秋の森の奥深く。

天才魔法使いと記憶を失った亡国の姫の、静かで熱い魔法の執筆が、今始まってしまった。

***

数日後

亡国の姫と思しき少女がこの『秋の魔導書庫』に倒れ込んでから、数日が経過していた。

彼女は書庫の一角にあるアンティーク調のゲストルームで静養し、少しずつ落ち着きを取り戻しつつあった。しかし、記憶は依然として白紙のままで、夜になれば炎の悪夢にうなされる日々が続いている。

一方のアルトは、この数日間、彼女が持ち込んだ『焼け焦げた本』と昼夜を問わず向き合っていた。

ページを開くたびに噴き出すのは、城が焼け落ちる熱気、怒号、そして底知れぬ絶望。常の魔法使いなら精神を病んでしまうほどの無念の奔流だ。だが、アルトは冷徹なまでに感情を切り離し、複雑な数式を解くようにその事象を読み解いていった。

「……見つけた」

銀色のインク壺の横で、アルトはポツリと呟いた。

机の向かいで温かいミルクティーを飲んでいた少女が、ビクッと肩を揺らす。

「あの炎の中で、あんたが本当に見失ってしまったもの。その『座標』がようやく特定できた」

アルトは疲れ切った目をこすりながらも、確かな光を宿した瞳で少女を見据えた。

彼女の記憶を覆い隠していたのは、国が滅んだことへの恐怖ではない。自分だけが生き残ってしまったという『罪悪感』だった。彼女は無意識のうちに、生き延びてしまった自分を許せず、最も大切な最期の記憶を自ら封印していたのだ。

アルトはガラスペンを手に取り、真っ白な原稿用紙に向かった。

複雑に絡み合った悲しみの糸を極限まで削ぎ落とし、ただ一つの真実へと繋ぎ合わせる。学園で異端とされた『無駄のない魔法』が、今、一人の少女の魂を救うために発動する。

『――燃え盛る城の最上階。母である女王は、娘を転移陣へと突き飛ばす直前、確かにこう微笑んだ。「どうか生きて、私の愛するアイリス」と。彼女の命は、決して呪いなどではない。愛の結晶である。』

書き上げたのは、残酷な事実の中にある、たった一つの優しい真実。

ペンを置いた瞬間、銀色のインクが爆発的な光を放ち、焼け焦げた本を包み込んだ。どす黒い炎の幻影が、温かく柔らかな光の粒子へと変換されていく。

「あ……」

光を浴びた少女の群青色の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。

悲しみの涙ではない。それは、ずっと心の奥底で凍りついていた感情が、温かい記憶とともに溶け出した証だった。

「アイリス……。そう、私の名前は、アイリス……」

少女――アイリスは両手で顔を覆い、子供のように声を上げて泣き崩れた。

幻聴のように響いていた人々の悲鳴は消え去り、脳裏に浮かぶのは、最後に見た母の優しく、誇り高い笑顔だけ。自分は無様に逃げ出したのではなく、未来を託されたのだと、ようやく思い出すことができたのだ。

ヴェラムが静かに羽ばたき、アルトの肩に降り立った。

「またしても、見事な手腕です。彼女の心を縛っていた自責の念を、最も純粋な『愛の記憶』を抽出することで解き放ったのですね」

「……ただ、計算式を合わせただけだ。彼女が本来持っていた記憶を、あるべき場所に繋ぎ直したに過ぎない」

素っ気なく答えるアルトだったが、その声には以前のような冷たさはなかった。

机の上で光を収めた本は、もう焼け焦げてはいなかった。美しい純白の表紙には、金色の文字で『アイリスの朝』と記されている。完成した本は静かに宙を舞い、書庫の一番日当たりの良い棚へと収まっていった。

泣き疲れてソファで眠りに落ちたアイリスに、アルトはもう一度自分の外套を掛け直す。

窓の外では、今日も変わらず紅葉が舞い散っている。けれど、この書庫に流れる時間は、確実に温かなものへと変わり始めていた。

「さて、次はどの本を整理するべきか」

「ふふっ。新任の司書様は、随分と働き者ですね」

才能を否定され、すべてを失った天才魔法使い。彼がこの終わらない秋の森で見つけたのは、誰かの人生に寄り添い、優しい結末を書き綴るという、世界で一番温かい魔法だった。

彼らの紡ぐ、秋の夜長のように静かで優しい物語は、ここから本格的に幕を開くのである。

泣き疲れてソファで眠りに落ちたアイリスの寝息が、静かな書庫に規則正しく響いている。

アルトは彼女の小さな肩に自身の外套を掛け直すと、執務机に戻り、冷めた紅茶を一口飲んだ。

窓の外では、夕日を浴びた紅葉が黄金色に輝きながら舞い散っている。

永遠に続くかのような秋の風景の中で、ふいにソファの方から衣擦れの音がした。

「……おはようございます、アルト様」

目を覚ましたアイリスが、ゆっくりと身を起こした。

その群青色の瞳には、数時間前まで宿っていた虚ろな恐怖は微塵もない。悲しみを乗り越え、確かな意志の光を宿した、王女本来の気高い眼差しだった。

「気分はどうだ」

「とても、穏やかです。不思議ですね……あんなに恐ろしかった炎の記憶が、今はただ、私を温めてくれる灯火のように感じます」

アイリスは胸元に両手を当て、愛おしそうに目を伏せた。

「母は最期に、私の背中を押してくれました。それは私を逃がすためではなく、私に未来の景色を見せるためだったのですね。……アルト様。あなたは、私が一番欲しかった言葉を見つけ出し、私に返してくれました。なんとお礼を言えばいいか……」

「礼には及ばない」

アルトは視線を窓の外へと逸らし、無愛想に答えた。

「俺はただ、あんたの記憶を構成する術式を最適化しただけだ。無駄な感情のノイズを省き、一番根底にあった事実を繋ぎ合わせた。……その温かさは、元々あんた自身が持っていたものだ」

照れ隠しのように淡々と述べるアルトの肩に、からくり鳥のヴェラムがパタパタと舞い降りる。

「ふふっ。うちの新任司書様は、ご自身の優しい魔法を素直に認められないようです。不器用なお方ですねぇ」

「うるさいぞ、ガラクタ鳥」

アルトの恨みがましい視線を受けても、ヴェラムはどこ吹く風と羽を繕っている。

その二人のやり取りを見て、アイリスは初めて、くすりと声を立てて笑った。花が咲くような、年相応の無邪気な笑顔だった。

「あの、アルト様、ヴェラムさん」

アイリスはソファから立ち上がり、アルトの執務机の前まで歩み寄った。そして、真剣な面持ちで背筋を伸ばす。

「私の国は滅びました。帰る場所は、もうどこにもありません。けれど……もう、泣いてばかりいるのはやめにします」

「……」

「この書庫には、私と同じように、行き場を失って泣いている記憶(本)がたくさんあるのでしょう? もしよろしければ……私を、ここで働かせていただけませんか。アルト様が私の物語を救ってくれたように、私も、誰かの物語に優しい結末を届けるお手伝いがしたいのです」

アイリスの真っ直ぐな言葉に、アルトは広大な書庫を見渡した。

天井まで届く無数の本棚。そこにはまだ、幾千、幾万もの『未完成の物語』が眠り、誰かに見つけてもらうのを待っている。そのすべてに結末を書き記すには、気の遠くなるような時間が必要だろう。

アルトは小さく息を吐き、再びアイリスへと視線を戻した。

「……ここは埃っぽいし、給料は出ない。その上、からくり鳥の小言を毎日聞かされることになる。それでもいいなら、好きにしろ」

「はい……! ありがとうございます、アルト様!」

アイリスの顔がパァッと明るく輝いた。

その瞬間、書庫中の本棚が嬉しそうにカタカタと鳴り、何十冊もの本が光の粒子を振り撒きながら宙を舞った。まるで、新しい仲間の誕生を祝福しているかのように。

「やれやれ。騒がしい職場になりそうだ」

アルトは呆れたように肩をすくめたが、その口元には、学園にいた頃には決して見せることのなかった、穏やかな笑みが浮かんでいた。

王立魔法学園を追放されたあの日、アルトの時間は完全に止まってしまったと思っていた。

しかし今、彼の右手には、誰かの心を救うためのガラスペンが握られている。そして隣には、共に物語を紡いでくれる賑やかな仲間たちがいる。

才能を否定され、すべてを失った天才魔法使い。

彼がこの終わらない秋の森で見つけたのは、世界で一番不器用で、世界で一番温かい魔法だった。

文字と魔法が交差する『秋の魔導書庫』。

彼らの紡ぐ、秋の夜長のように静かで優しい物語は、ここから本格的に幕を開ける。

(第1話 終わり)

第1話をお読みいただき、本当にありがとうございます!

「無駄がないだけで、美しくない」。そう冷たく切り捨てられ、エリート街道から外れてしまった主人公アルト。彼がこの一年中紅葉が舞う不思議な森で、どのような過去(本)と出会い、どう変わっていくのか。彼の紡ぐ不器用で優しい物語を、これから一緒に見守っていただけると嬉しいです。

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次回は毎日更新予定です。引き続きよろしくお願いいたします!

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