婚約破棄を宣言された令嬢、料理が冷めるので先にいただきます
「エリシア・ローレンス! 私は今ここで、貴様との婚約を破棄する!」
王太子アルベルトの声が、王宮の大広間に響き渡った。
楽団の演奏が止まる。
食器の音も止まる。
晩餐会に集まった貴族たちの視線が、一斉に公爵令嬢エリシアへ向いた。
アルベルトの隣には、聖女リリアが青ざめた顔で立っている。
そして、婚約破棄を宣告された本人は――
「…………」
何も言えなかった。
婚約期間は十年。
政略結婚とはいえ、十二歳の頃から隣にいた相手だ。
握っていたスプーンが、かすかに震える。
カチン。
皿に触れた小さな音で、エリシアの視線が目の前へ落ちた。
白いポタージュから、まだ湯気が立っている。
「殿下」
エリシアは顔を上げた。
「なんだ。今さら何を言っても――」
「先に、こちらをいただいてもよろしいでしょうか」
「……何をだ」
「スープを」
「…………」
アルベルトがスープを見る。
エリシアも見る。
つられて周囲の貴族たちも見る。
「なぜだ!?」
「冷めてしまいますので」
「今それを気にするのか!?」
「婚約破棄のお話は十分後でもできますが、スープは十分後には冷めています」
「婚約破棄をスープより後回しにするな!」
「では、殿下がお先に」
「何を!?」
「お食事を」
「私の話を聞け!」
「聞いております」
エリシアは律儀に確認した。
「私との婚約を破棄なさる」
「そうだ!」
「聖女リリア様を愛している」
「そうだ!」
「私には王太子妃としての資質がない」
「その通りだ!」
「以上ですね」
「大体そうだ!」
「では、いただきます」
「勝手に話を締めるな!」
エリシアはスープを一口飲んだ。
温かい。
強張っていた喉を、ゆっくり通っていく。
「……美味しい」
「感想を言うな!」
大広間がざわめいた。
「お前は今、自分が何を言われたのか分かっているのか!」
「はい。婚約破棄です」
「なら、なぜスプーンを持っている!」
「スープがありますので」
「状況説明としては正しいが!」
どこかから、小さく笑いが漏れた。
アルベルトが睨む。
「笑うな!」
大広間が再び静まる。
その静寂の中で、エリシアは二口目を飲んだ。
「そのスプーンを置け!」
「なぜでしょう」
「話に集中しろ!」
「耳は空いております」
「食事中の会議みたいに扱うな!」
「では、聞き漏らしがあればお申し付けください」
「そういう問題ではない!」
アルベルトが額を押さえた。
「そんなに腹が減っているのか!」
「それもあります」
「そこは否定しろ!」
今度は何人かが、はっきり吹き出した。
◇
「そもそも、そんなスープなどどうでもいい!」
アルベルトが言った。
「こちら、料理長が朝から仕込んでくださったそうですよ」
「だからなんだ!」
「冷ましてしまうと、料理長が悲しむかと」
「今、一番悲しむべきなのはお前だろう!」
エリシアのスプーンが止まった。
「……そうですね」
ほんの一瞬だけ、声が小さくなる。
アルベルトも黙った。
けれどエリシアは、やがてもう一口スープを飲んだ。
「ですが、それで料理長まで悲しませる必要はありませんので」
「悲しみを増やさない方向が独特すぎる!」
「また明日作らせればいい!」
「同じ料理長に?」
「当然だ!」
「では、今日作ってくださった分は無駄になりますね」
「…………」
「急に私が嫌な雇用主みたいになった!」
エリシアは何も答えず、静かにスープを飲んだ。
「その顔をやめろ!」
「どの顔でしょう」
「何も言わずに私を責めている顔だ!」
「いつもの顔ですが」
「それが一番困る!」
エリシアは昔から、少し妙なところがあった。
高価な宝石をなくしても落ち着いて探すくせに、侍女が夜なべして刺繍したハンカチをなくした時には、三日間屋敷中を探し回った。
値段よりも、そこに誰かが使った手間を気にする娘だった。
◇
「エリシア様……」
それまで黙っていた聖女リリアが、おずおずと口を開いた。
「私からも謝らせてください。私が殿下をお慕いしてしまったから……」
エリシアはリリアを見る。
「正直に申し上げれば、あなたにも腹を立てています」
「……はい」
リリアの肩が落ちた。
「ですが」
「はい?」
エリシアは、リリアの前の皿を見る。
「そちらも冷めますよ」
「……え?」
「お召し上がりになった方が」
アルベルトが即座に振り向いた。
「なぜ恋敵に食事を勧める!?」
「腹を立てているのであって、意地悪をしたいわけではありません」
「そこだけ妙に大人だな!」
リリアは困った顔で、自分のスープを見る。
「でも私……こんな状況で食べるなんて……」
「お気持ちは分かります」
「エリシア様……」
「そちらのパンをつけると美味しいですよ」
「今、何のお気持ちを分かってくださったんですか?」
リリアは思わずパンを見る。
そしてスープを見る。
「リリア、無理して食べる必要はない!」
「でも……」
「でも?」
「……美味しそうです」
「リリア!」
「いただきます」
「食べるな!」
リリアがスープを一口飲んだ。
目が少し見開かれる。
「……美味しいです」
エリシアがうなずいた。
「でしょう?」
「仲良くなるな!」
大広間の緊張が、また少しだけ崩れた。
◇
カチャ。
静かな広間に、フォークの音が響いた。
アルベルトが振り向く。
「誰だ!」
「余だ」
「父上!?」
国王だった。
何事もなかったかのように肉を切っている。
「いつから食べていたのですか!?」
「少し前から」
「なぜ!?」
「お前の話が長い」
「息子が婚約破棄をしているのですよ!?」
「聞いておる」
「では!」
「食べながらでも聞ける」
「親子なのにエリシア側なのですか!?」
国王が眉を上げた。
「料理に陣営を作るな」
そして一口。
「うむ。うまい」
「父上まで感想を言うな!」
「アルベルト、お前も食べろ」
「食べません!」
エリシアもうなずいた。
「そうですよ。冷めますよ」
「なぜ二人で親みたいに言う!」
「余は親だが」
「今そこはどうでもいいです!」
国王は淡々と食事を続ける。
王が食べている。
ならば自分たちも食べてよいのではないか。
そんな空気が広がるまで、大して時間はかからなかった。
カチャ。
カチャ。
一人、また一人。
貴族たちが食事を再開する。
「お前たちまで食べるな! まだ終わっていない!」
「今日のスープ、いつもより濃厚ですね」
「確かに」
「そこで料理談義を始めるな!」
遠くの席から、小さな笑いが起こった。
◇
そこへ、給仕たちがメイン料理を運んできた。
ところが、列の先頭でぴたりと止まる。
王太子はまだ立ったまま。
一方で、国王も貴族たちもすでに食事を再開している。
このまま料理を置くべきか。
それとも王太子の話が終わるまで待つべきか。
皿を持った給仕たちは、困り果てた顔で互いを見た。
エリシアは、その様子に気づいた。
少し待つ。
誰も指示を出さない。
「どうぞ、置いてください」
エリシアが声をかけた。
給仕たちの顔が、露骨にほっとする。
「かしこまりました」
「なぜお前が仕切る!?」
アルベルトが目を剥いた。
「皆様が困っていらっしゃいましたので」
「私がいるだろう!」
「殿下はお話し中でしたので」
「その話が婚約破棄なんだ!」
「存じております」
「なら、なぜ普通に配膳を進める!」
「お料理が来ましたので」
「最初からずっとそれだな!」
給仕たちは一斉に動き始めた。
「こちらからお願いいたします」
「はい、エリシア様」
「そのまま続けるな!」
若い給仕が皿を手に、エリシアへ尋ねる。
「エリシア様、こちらはどちらへ?」
「右側へお願いします」
「かしこまりました」
「なぜエリシアに聞く!」
アルベルトに問われ、給仕がびくりと肩を揺らした。
「も、申し訳ございません」
「いや、責めているわけではない。なぜ私ではなくエリシアなんだ?」
給仕は少し迷ってから答えた。
「一番、何をすればいいか分かりやすく教えてくださるので……」
「現場から評価されるな!」
エリシアが軽く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「そこで礼を言うな!」
もう完全に、誰が晩餐会を進めているのか分からなくなっていた。
◇
アルベルトの前にも、メイン料理が運ばれてきた。
「私はいらん!」
給仕の手が止まる。
エリシアが皿を見た。
「殿下」
「なんだ!」
「今日のお肉、殿下がお好きな香草焼きですよ」
「…………」
「ソースも、去年お気に召していました」
「…………」
「付け合わせも、お嫌いなお豆ではなくお芋です」
「なぜそんなに詳しい!」
「十年婚約しておりましたので」
アルベルトが、一瞬だけ黙る。
「……下げろ」
「かしこまりました」
給仕が皿を持ち上げる。
「待て!」
ぴたりと止まる。
「……置いておけ」
エリシアが首を傾げた。
「召し上がるのですか?」
「食べない!」
「では、なぜ?」
「置いておくだけだ!」
「冷めますよ」
「分かっている!」
三十秒後。
アルベルトは座っていた。
一分後。
フォークで肉を一切れ口へ運んでいた。
エリシアが無言で見る。
「……なんだ」
「いえ」
「言いたいことがあるなら言え!」
「美味しいですか?」
「これは食事ではない!」
「では?」
「確認だ!」
「何を?」
「味をだ!」
「それを食事と言うのでは?」
「うるさい!」
アルベルトは、もう一切れ口へ運んだ。
「……うまい」
エリシアが微笑む。
「でしょう?」
「その顔をやめろ!」
「どの顔でしょう」
「勝った顔だ!」
「勝負しておりません」
「それが一番腹立つ!」
横から国王が口を挟んだ。
「五口目だぞ」
「数えるな父上!」
大広間に笑いが広がった。
◇
しばらくすると。
アルベルトは、もう普通に料理へ手を伸ばしていた。
リリアも食べている。
国王はワインを飲んでいる。
貴族たちは談笑している。
給仕たちは滞りなく料理を運んでいる。
楽団まで、いつの間にか演奏を再開していた。
「…………」
アルベルトが肉を一口。
「…………」
スープを一口。
「…………」
そして、ふと手を止めた。
「殿下?」
エリシアが尋ねる。
「……何か、大事な話をしていた気がする」
エリシアが首を傾げた。
「婚約破棄では?」
「それだ!」
大広間がどっと沸いた。
◇
料理が一段落した頃。
アルベルトは、改めてエリシアを見た。
「……本当に、悲しくないのか」
エリシアの手が止まった。
「悲しいですよ」
「なら、なぜそんなに平気そうなんだ」
「平気ではありません」
「どこがだ」
エリシアは右手を見せる。
まだ、ほんの少し震えていた。
「先ほどから三回、スプーンを落としかけています」
「……分かりづらい!」
アルベルトが反射的に突っ込んだ。
エリシアは少し笑う。
「困った時は、目の前のことを一つずつ済ませるようにしているのです」
「…………」
「婚約のことは、今すぐには整理できません。でも、料理を温かいうちにいただくことならできますから」
アルベルトは何も言わなかった。
「婚約を解消したいというお気持ちは、仕方がないと思っています」
「……ああ」
「ですが、十年一緒にいた相手です」
エリシアは、まっすぐアルベルトを見る。
「皆様の前で突然おっしゃる前に、一度くらい二人で話してほしかったです」
「…………」
「そこには、本気で怒っています」
短い沈黙。
アルベルトは、ゆっくり頭を下げた。
「……すまなかった」
「はい」
「婚約を終わらせたいことではない。このやり方については、私が悪かった」
「はい」
「本当に、すまない」
エリシアは少しだけ間を置いた。
「謝罪は、お受けします」
アルベルトが顔を上げる。
「……許してくれるか?」
「まだ怒っていますので、少々お待ちください」
「許しにも待ち時間があるのか!」
「感情は、スープほど早く冷めませんので」
「そこでスープに戻るのか!」
広間から笑いが漏れた。
エリシアも、ほんの少し笑った。
「ですが、謝ってくださったことは嬉しいです」
「怒っているのに?」
「はい」
「……ややこしいな」
「人の気持ちは、そういうものでは?」
「急にまともなことを言うな」
「ずっとまともです」
「それは認めない」
婚約は、その場で正式に解消された。
◇
「では、失礼いたします」
エリシアが席を立った、その時だった。
「エリシア様」
白髪交じりの料理長が、厨房から出てきた。
「料理長」
「本日のお料理、お口に合いましたでしょうか」
「もちろんです。とても美味しかったです」
料理長は帽子を取り、深く頭を下げる。
「十年間、いつも残さず召し上がってくださり、ありがとうございました」
「…………」
エリシアが固まった。
「新しい料理をお出しすれば、必ずお気づきになってくださった。料理人として、本当に嬉しゅうございました」
「……だって」
エリシアの声が震えた。
「美味しかったですから」
ぽろり、と涙が落ちた。
アルベルトが思わず口を開く。
「……そこで泣くのか」
エリシアが振り返った。
「我慢していたんです!」
「私の時もそれくらい分かりやすくしてくれ!」
「十年も一緒にいたなら察してください!」
「最後に無茶を言うな!」
大広間に笑いが起きた。
エリシアも、涙を拭いながら少し笑った。
「もう、こちらのお料理をいただけないのですね」
「でしたら」
料理長が微笑む。
「お気に入りの料理のレシピを、お渡しいたしましょう」
エリシアの涙が止まった。
「本当ですか?」
「はい。三品ほど」
「…………」
エリシアの表情が、今日一番深刻になった。
「……三品?」
「はい」
「十年分から?」
「はい」
アルベルトが眉をひそめる。
「なぜ今日一番深刻な顔をしている?」
「十年分から三品ですよ?」
「婚約破棄の時より悩むな!」
「比べないでください!」
「比べたくもなる!」
エリシアは料理長へ向き直った。
「五品では?」
「三品で」
「四品」
「三品です」
「交渉を始めるな!」
「ここは譲れません」
「婚約の時より粘るな!」
「それとこれは別です!」
「知ってる! もうそれは知ってる!」
料理長が堪えきれず笑った。
「では、特別に四品」
エリシアの顔がぱっと明るくなる。
「ありがとうございます!」
「勝ち取った!」
大広間に、今日一番大きな笑いが広がった。
エリシアも笑った。
涙の跡を残したまま。
それから料理長へ、深く頭を下げる。
「十年間、本当にありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
婚約は終わった。
料理は、ちゃんと温かいうちに食べられた。
今夜はきっと泣くだろう。
それは、帰ってからでいい。




