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婚約破棄を宣言された令嬢、料理が冷めるので先にいただきます

作者: ほっこり純
掲載日:2026/08/15

「エリシア・ローレンス! 私は今ここで、貴様との婚約を破棄する!」


 王太子アルベルトの声が、王宮の大広間に響き渡った。


 楽団の演奏が止まる。


 食器の音も止まる。


 晩餐会に集まった貴族たちの視線が、一斉に公爵令嬢エリシアへ向いた。


 アルベルトの隣には、聖女リリアが青ざめた顔で立っている。


 そして、婚約破棄を宣告された本人は――


「…………」


 何も言えなかった。


 婚約期間は十年。


 政略結婚とはいえ、十二歳の頃から隣にいた相手だ。


 握っていたスプーンが、かすかに震える。


 カチン。


 皿に触れた小さな音で、エリシアの視線が目の前へ落ちた。


 白いポタージュから、まだ湯気が立っている。


「殿下」


 エリシアは顔を上げた。


「なんだ。今さら何を言っても――」


「先に、こちらをいただいてもよろしいでしょうか」


「……何をだ」


「スープを」


「…………」


 アルベルトがスープを見る。


 エリシアも見る。


 つられて周囲の貴族たちも見る。


「なぜだ!?」


「冷めてしまいますので」


「今それを気にするのか!?」


「婚約破棄のお話は十分後でもできますが、スープは十分後には冷めています」


「婚約破棄をスープより後回しにするな!」


「では、殿下がお先に」


「何を!?」


「お食事を」


「私の話を聞け!」


「聞いております」


 エリシアは律儀に確認した。


「私との婚約を破棄なさる」


「そうだ!」


「聖女リリア様を愛している」


「そうだ!」


「私には王太子妃としての資質がない」


「その通りだ!」


「以上ですね」


「大体そうだ!」


「では、いただきます」


「勝手に話を締めるな!」


 エリシアはスープを一口飲んだ。


 温かい。


 強張っていた喉を、ゆっくり通っていく。


「……美味しい」


「感想を言うな!」


 大広間がざわめいた。


「お前は今、自分が何を言われたのか分かっているのか!」


「はい。婚約破棄です」


「なら、なぜスプーンを持っている!」


「スープがありますので」


「状況説明としては正しいが!」


 どこかから、小さく笑いが漏れた。


 アルベルトが睨む。


「笑うな!」


 大広間が再び静まる。


 その静寂の中で、エリシアは二口目を飲んだ。


「そのスプーンを置け!」


「なぜでしょう」


「話に集中しろ!」


「耳は空いております」


「食事中の会議みたいに扱うな!」


「では、聞き漏らしがあればお申し付けください」


「そういう問題ではない!」


 アルベルトが額を押さえた。


「そんなに腹が減っているのか!」


「それもあります」


「そこは否定しろ!」


 今度は何人かが、はっきり吹き出した。



     ◇



「そもそも、そんなスープなどどうでもいい!」


 アルベルトが言った。


「こちら、料理長が朝から仕込んでくださったそうですよ」


「だからなんだ!」


「冷ましてしまうと、料理長が悲しむかと」


「今、一番悲しむべきなのはお前だろう!」


 エリシアのスプーンが止まった。


「……そうですね」


 ほんの一瞬だけ、声が小さくなる。


 アルベルトも黙った。


 けれどエリシアは、やがてもう一口スープを飲んだ。


「ですが、それで料理長まで悲しませる必要はありませんので」


「悲しみを増やさない方向が独特すぎる!」


「また明日作らせればいい!」


「同じ料理長に?」


「当然だ!」


「では、今日作ってくださった分は無駄になりますね」


「…………」


「急に私が嫌な雇用主みたいになった!」


 エリシアは何も答えず、静かにスープを飲んだ。


「その顔をやめろ!」


「どの顔でしょう」


「何も言わずに私を責めている顔だ!」


「いつもの顔ですが」


「それが一番困る!」


 エリシアは昔から、少し妙なところがあった。


 高価な宝石をなくしても落ち着いて探すくせに、侍女が夜なべして刺繍したハンカチをなくした時には、三日間屋敷中を探し回った。


 値段よりも、そこに誰かが使った手間を気にする娘だった。



     ◇



「エリシア様……」


 それまで黙っていた聖女リリアが、おずおずと口を開いた。


「私からも謝らせてください。私が殿下をお慕いしてしまったから……」


 エリシアはリリアを見る。


「正直に申し上げれば、あなたにも腹を立てています」


「……はい」


 リリアの肩が落ちた。


「ですが」


「はい?」


 エリシアは、リリアの前の皿を見る。


「そちらも冷めますよ」


「……え?」


「お召し上がりになった方が」


 アルベルトが即座に振り向いた。


「なぜ恋敵に食事を勧める!?」


「腹を立てているのであって、意地悪をしたいわけではありません」


「そこだけ妙に大人だな!」


 リリアは困った顔で、自分のスープを見る。


「でも私……こんな状況で食べるなんて……」


「お気持ちは分かります」


「エリシア様……」


「そちらのパンをつけると美味しいですよ」


「今、何のお気持ちを分かってくださったんですか?」


 リリアは思わずパンを見る。


 そしてスープを見る。


「リリア、無理して食べる必要はない!」


「でも……」


「でも?」


「……美味しそうです」


「リリア!」


「いただきます」


「食べるな!」


 リリアがスープを一口飲んだ。


 目が少し見開かれる。


「……美味しいです」


 エリシアがうなずいた。


「でしょう?」


「仲良くなるな!」


 大広間の緊張が、また少しだけ崩れた。



     ◇



 カチャ。


 静かな広間に、フォークの音が響いた。


 アルベルトが振り向く。


「誰だ!」


「余だ」


「父上!?」


 国王だった。


 何事もなかったかのように肉を切っている。


「いつから食べていたのですか!?」


「少し前から」


「なぜ!?」


「お前の話が長い」


「息子が婚約破棄をしているのですよ!?」


「聞いておる」


「では!」


「食べながらでも聞ける」


「親子なのにエリシア側なのですか!?」


 国王が眉を上げた。


「料理に陣営を作るな」


 そして一口。


「うむ。うまい」


「父上まで感想を言うな!」


「アルベルト、お前も食べろ」


「食べません!」


 エリシアもうなずいた。


「そうですよ。冷めますよ」


「なぜ二人で親みたいに言う!」


「余は親だが」


「今そこはどうでもいいです!」


 国王は淡々と食事を続ける。


 王が食べている。


 ならば自分たちも食べてよいのではないか。


 そんな空気が広がるまで、大して時間はかからなかった。


 カチャ。


 カチャ。


 一人、また一人。


 貴族たちが食事を再開する。


「お前たちまで食べるな! まだ終わっていない!」


「今日のスープ、いつもより濃厚ですね」


「確かに」


「そこで料理談義を始めるな!」


 遠くの席から、小さな笑いが起こった。



     ◇



 そこへ、給仕たちがメイン料理を運んできた。


 ところが、列の先頭でぴたりと止まる。


 王太子はまだ立ったまま。


 一方で、国王も貴族たちもすでに食事を再開している。


 このまま料理を置くべきか。


 それとも王太子の話が終わるまで待つべきか。


 皿を持った給仕たちは、困り果てた顔で互いを見た。


 エリシアは、その様子に気づいた。


 少し待つ。


 誰も指示を出さない。


「どうぞ、置いてください」


 エリシアが声をかけた。


 給仕たちの顔が、露骨にほっとする。


「かしこまりました」


「なぜお前が仕切る!?」


 アルベルトが目を剥いた。


「皆様が困っていらっしゃいましたので」


「私がいるだろう!」


「殿下はお話し中でしたので」


「その話が婚約破棄なんだ!」


「存じております」


「なら、なぜ普通に配膳を進める!」


「お料理が来ましたので」


「最初からずっとそれだな!」


 給仕たちは一斉に動き始めた。


「こちらからお願いいたします」


「はい、エリシア様」


「そのまま続けるな!」


 若い給仕が皿を手に、エリシアへ尋ねる。


「エリシア様、こちらはどちらへ?」


「右側へお願いします」


「かしこまりました」


「なぜエリシアに聞く!」


 アルベルトに問われ、給仕がびくりと肩を揺らした。


「も、申し訳ございません」


「いや、責めているわけではない。なぜ私ではなくエリシアなんだ?」


 給仕は少し迷ってから答えた。


「一番、何をすればいいか分かりやすく教えてくださるので……」


「現場から評価されるな!」


 エリシアが軽く頭を下げた。


「ありがとうございます」


「そこで礼を言うな!」


 もう完全に、誰が晩餐会を進めているのか分からなくなっていた。



     ◇



 アルベルトの前にも、メイン料理が運ばれてきた。


「私はいらん!」


 給仕の手が止まる。


 エリシアが皿を見た。


「殿下」


「なんだ!」


「今日のお肉、殿下がお好きな香草焼きですよ」


「…………」


「ソースも、去年お気に召していました」


「…………」


「付け合わせも、お嫌いなお豆ではなくお芋です」


「なぜそんなに詳しい!」


「十年婚約しておりましたので」


 アルベルトが、一瞬だけ黙る。


「……下げろ」


「かしこまりました」


 給仕が皿を持ち上げる。


「待て!」


 ぴたりと止まる。


「……置いておけ」


 エリシアが首を傾げた。


「召し上がるのですか?」


「食べない!」


「では、なぜ?」


「置いておくだけだ!」


「冷めますよ」


「分かっている!」


 三十秒後。


 アルベルトは座っていた。


 一分後。


 フォークで肉を一切れ口へ運んでいた。


 エリシアが無言で見る。


「……なんだ」


「いえ」


「言いたいことがあるなら言え!」


「美味しいですか?」


「これは食事ではない!」


「では?」


「確認だ!」


「何を?」


「味をだ!」


「それを食事と言うのでは?」


「うるさい!」


 アルベルトは、もう一切れ口へ運んだ。


「……うまい」


 エリシアが微笑む。


「でしょう?」


「その顔をやめろ!」


「どの顔でしょう」


「勝った顔だ!」


「勝負しておりません」


「それが一番腹立つ!」


 横から国王が口を挟んだ。


「五口目だぞ」


「数えるな父上!」


 大広間に笑いが広がった。



     ◇



 しばらくすると。


 アルベルトは、もう普通に料理へ手を伸ばしていた。


 リリアも食べている。


 国王はワインを飲んでいる。


 貴族たちは談笑している。


 給仕たちは滞りなく料理を運んでいる。


 楽団まで、いつの間にか演奏を再開していた。


「…………」


 アルベルトが肉を一口。


「…………」


 スープを一口。


「…………」


 そして、ふと手を止めた。


「殿下?」


 エリシアが尋ねる。


「……何か、大事な話をしていた気がする」


 エリシアが首を傾げた。


「婚約破棄では?」


「それだ!」


 大広間がどっと沸いた。



     ◇



 料理が一段落した頃。


 アルベルトは、改めてエリシアを見た。


「……本当に、悲しくないのか」


 エリシアの手が止まった。


「悲しいですよ」


「なら、なぜそんなに平気そうなんだ」


「平気ではありません」


「どこがだ」


 エリシアは右手を見せる。


 まだ、ほんの少し震えていた。


「先ほどから三回、スプーンを落としかけています」


「……分かりづらい!」


 アルベルトが反射的に突っ込んだ。


 エリシアは少し笑う。


「困った時は、目の前のことを一つずつ済ませるようにしているのです」


「…………」


「婚約のことは、今すぐには整理できません。でも、料理を温かいうちにいただくことならできますから」


 アルベルトは何も言わなかった。


「婚約を解消したいというお気持ちは、仕方がないと思っています」


「……ああ」


「ですが、十年一緒にいた相手です」


 エリシアは、まっすぐアルベルトを見る。


「皆様の前で突然おっしゃる前に、一度くらい二人で話してほしかったです」


「…………」


「そこには、本気で怒っています」


 短い沈黙。


 アルベルトは、ゆっくり頭を下げた。


「……すまなかった」


「はい」


「婚約を終わらせたいことではない。このやり方については、私が悪かった」


「はい」


「本当に、すまない」


 エリシアは少しだけ間を置いた。


「謝罪は、お受けします」


 アルベルトが顔を上げる。


「……許してくれるか?」


「まだ怒っていますので、少々お待ちください」


「許しにも待ち時間があるのか!」


「感情は、スープほど早く冷めませんので」


「そこでスープに戻るのか!」


 広間から笑いが漏れた。


 エリシアも、ほんの少し笑った。


「ですが、謝ってくださったことは嬉しいです」


「怒っているのに?」


「はい」


「……ややこしいな」


「人の気持ちは、そういうものでは?」


「急にまともなことを言うな」


「ずっとまともです」


「それは認めない」


 婚約は、その場で正式に解消された。



     ◇



「では、失礼いたします」


 エリシアが席を立った、その時だった。


「エリシア様」


 白髪交じりの料理長が、厨房から出てきた。


「料理長」


「本日のお料理、お口に合いましたでしょうか」


「もちろんです。とても美味しかったです」


 料理長は帽子を取り、深く頭を下げる。


「十年間、いつも残さず召し上がってくださり、ありがとうございました」


「…………」


 エリシアが固まった。


「新しい料理をお出しすれば、必ずお気づきになってくださった。料理人として、本当に嬉しゅうございました」


「……だって」


 エリシアの声が震えた。


「美味しかったですから」


 ぽろり、と涙が落ちた。


 アルベルトが思わず口を開く。


「……そこで泣くのか」


 エリシアが振り返った。


「我慢していたんです!」


「私の時もそれくらい分かりやすくしてくれ!」


「十年も一緒にいたなら察してください!」


「最後に無茶を言うな!」


 大広間に笑いが起きた。


 エリシアも、涙を拭いながら少し笑った。


「もう、こちらのお料理をいただけないのですね」


「でしたら」


 料理長が微笑む。


「お気に入りの料理のレシピを、お渡しいたしましょう」


 エリシアの涙が止まった。


「本当ですか?」


「はい。三品ほど」


「…………」


 エリシアの表情が、今日一番深刻になった。


「……三品?」


「はい」


「十年分から?」


「はい」


 アルベルトが眉をひそめる。


「なぜ今日一番深刻な顔をしている?」


「十年分から三品ですよ?」


「婚約破棄の時より悩むな!」


「比べないでください!」


「比べたくもなる!」


 エリシアは料理長へ向き直った。


「五品では?」


「三品で」


「四品」


「三品です」


「交渉を始めるな!」


「ここは譲れません」


「婚約の時より粘るな!」


「それとこれは別です!」


「知ってる! もうそれは知ってる!」


 料理長が堪えきれず笑った。


「では、特別に四品」


 エリシアの顔がぱっと明るくなる。


「ありがとうございます!」


「勝ち取った!」


 大広間に、今日一番大きな笑いが広がった。


 エリシアも笑った。


 涙の跡を残したまま。


 それから料理長へ、深く頭を下げる。


「十年間、本当にありがとうございました」


「こちらこそ、ありがとうございました」



 婚約は終わった。


 料理は、ちゃんと温かいうちに食べられた。



 今夜はきっと泣くだろう。


 それは、帰ってからでいい。


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