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偽りベータの宮廷薬師は、氷の宰相に匂いを嗅がれ溺愛される  作者: 水凪しおん


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第6話「毒杯と守られた背中」

 その日の執務室は、いつもと少し違っていた。


 書類仕事の合間に、アレクセイがお茶の時間を設けたのだ。


 来客用の豪華なローテーブルには、銀の盆に乗ったティーセットと、色とりどりの焼き菓子が並べられている。


「座れ。たまには息抜きも必要だ」


 彼はソファに深々と腰掛け、僕にも向かい側に座るよう促した。


 普段は仕事一筋の彼が、こんな風にリラックスした時間を持つこと自体が珍しい。


 それだけ、僕という「精神安定剤」の効果が出ているということなのだろうか。


 給仕係が恭しくお茶を注ぎ、静かに退室していく。


 部屋には、芳醇な紅茶の香りと、甘い菓子の匂いが満ちていた。


 しかし、僕は鼻をひくつかせた。


 何かがおかしい。


 紅茶の香ばしさに混じって、ごくわずかに、違和感のある匂いがする。


 それは、苦いアーモンドのような、あるいは焦げた金属のような、不自然な刺激臭。


 薬師としての長年の経験が、警鐘を鳴らしていた。


 アレクセイは何の疑いもなく、ティーカップに手を伸ばそうとしていた。


 白い磁器のカップが、彼の手の中で持ち上がる。


 その液体が彼の唇に触れる寸前、僕は反射的に身体を動かしていた。


「飲んではいけません!」


思考よりも先に身体が動いていた。


 叫ぶと同時に、僕はテーブル越しに手を伸ばし、彼の手からカップを叩き落とした。


 ガシャン!


 鋭い破砕音が響き、熱い紅茶が絨毯に広がる。


 アレクセイは目を見開き、凍りついたように僕を見た。


「……何をした」


 静かな、けれど怒気を孕んだ声。


 僕は自分の失礼な振る舞いに震えながらも、床に散らばった破片の一片を拾い上げた。


 こぼれた紅茶が、絨毯を黒く染めている。その縁が、わずかに泡立っていた。


「毒です……おそらく、トリカブトの濃縮液かと」


 僕の言葉に、アレクセイの表情が一変した。


 彼はすぐに立ち上がり、床の染みを確認する。そして、鋭い視線を扉の方へと向けた。


「……給仕係か」


 彼は低くつぶやき、すぐに懐から呼び鈴を取り出して鳴らした。


 数秒もしないうちに、衛兵たちが飛び込んでくる。


「先ほどの給仕を捕らえろ! 城門を封鎖し、一匹たりとも逃がすな!」


 雷のような怒号。


 衛兵たちが慌ただしく動き出し、部屋の中は一気に騒然となった。


 僕は、自分の手が震えていることに気づいた。


 もし、あと一秒遅れていたら。


 彼が死んでいたかもしれないと思うと、恐怖で足がすくんだ。


 そんな僕の肩を、強い力が抱き寄せた。


「ルチアーノ」


 耳元で名前を呼ばれ、顔を上げる。


 アレクセイが、至近距離で僕を見つめていた。


 その瞳には、怒りではなく、見たことのない熱が宿っていた。


「お前が気づかなければ、私は死んでいた」


「……薬師ですから。匂いで、分かりました」


「匂いか。また、お前のその鼻に救われたわけだ」


 彼は皮肉っぽく笑ったが、その腕は僕を離そうとしなかった。


 むしろ、より強く、逃げられないように抱きしめられる。


「閣下、苦しいです……」


「黙っていろ。今、離せば……私がどうなるか分からん」


 彼の手が微かに震えているのが分かった。


 恐怖ではない。これは興奮だ。


 死の淵を覗いた直後のアドレナリンと、自分の「所有物」が役に立ったという歪んだ歓喜。


 アルファの本能が暴走しかけている。


 彼の匂いが濃くなる。


 冷たい森の香りが、嵐のように荒々しくなり、僕の全身を包み込む。


 それは僕の本能を強く刺激した。


 身体が熱くなり、膝の力が抜ける。彼にしがみつかなければ立っていられないほどに。


「よくやった。褒美をやる」


 アレクセイは僕の顎を持ち上げ、強引に視線を合わせた。


「お前はただの匂い袋ではない。私の命を繋ぐ綱だ」


 彼の顔が近づいてくる。


 唇が触れそうな距離で、彼はささやいた。


「もう二度と、私のそばから離れることは許さん。お前を狙う者がいれば、誰であろうと排除してやる」


 それは愛の告白などではなく、独占欲の塊のような宣言だった。


 けれど、その言葉に、僕の身体の奥底が甘く痺れたのを否定できなかった。


 彼に守られること。彼に必要とされること。


 それが、偽りの人生を生きてきた僕にとって、どれほど強烈な麻薬となるか。


 僕は彼の腕の中で、静かに目を閉じた。


 部屋の外では、毒殺未遂の犯人を捜す怒号が飛び交っている。


 しかし、この腕の中だけは、奇妙なほど静かで、温かかった。


 僕たちは共犯者から、もっと深く、逃れられない関係へと足を踏み入れてしまったのだ。


 毒の香りが残る部屋で、僕たちは互いの体温を確かめ合うように、強く抱き合っていた。

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