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偽りベータの宮廷薬師は、氷の宰相に匂いを嗅がれ溺愛される  作者: 水凪しおん


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第5話「宮廷の噂と嫉妬の視線」

 宮廷の廊下を歩くたびに、背中に突き刺さるような視線を感じるようになったのは、宰相の執務室に通い始めて三日目のことだった。


 今まで空気のように扱われていた僕の存在が、急速に色を持ち始めている。それも、ひどく濁った、悪意のある色だ。


「……あれが、例の薬師か?」


「ああ、第三薬務室のルチアーノだとか。なんの変哲もない男じゃないか」


「宰相閣下も物好きだな。あんな地味なベータを側に置くなんて」


 すれ違いざまに囁かれる言葉は、わざと聞こえるように発せられていた。


 貴族たちの扇子の陰から向けられる嘲笑、侍女たちの好奇の目、そして同僚たちからの嫉妬混じりの無視。


 僕は薬箱を強く抱きしめ、視線を足元に落として早足で歩くことしかできなかった。


 彼らが言っていることは間違っていない。


 僕は地味で、何の取り柄もない男だ。少なくとも、表向きは。


 けれど、彼らの言葉の端々に滲む「なぜあいつが」という苛立ちが、僕の神経を削り取っていく。


 アレクセイ宰相の寵愛を受けている――そんな根も葉もない噂が、一人歩きしていた。


 実際は、ただ彼の感覚過敏を鎮めるための「匂い袋」として扱われているだけなのに。


 真実を叫ぶこともできず、否定すれば彼の不興を買うかもしれない。


 僕は逃げ場のない檻の中で、ただ嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。


 ***


 その日の午後、薬草園での作業を終えて戻ろうとした時だった。


 人通りの少ない渡り廊下で、数人の人影が僕の行く手を阻んだ。


 きらびやかなシルクの衣装を身にまとった、若い貴族の青年たちだ。胸には家紋の入ったブローチが光っている。


「おい、そこの薬師。ちょっと面を貸せ」


 中心にいる金髪の男が、顎で僕を指した。


 嫌な予感がして、僕は一歩後ずさる。


「……何か御用でしょうか。私は次の仕事がありまして」


「生意気な口を利くな。たかが平民の分際で」


 男は嘲るように笑い、僕の肩を乱暴に突いた。


 よろめいて、背中が石壁にぶつかる。抱えていた籠から、乾燥したハーブが数枚こぼれ落ちた。


「お前、アレクセイ様に何をした? どんな手を使って取り入ったんだ」


 男の目は真剣だった。そこにあるのは純粋な嫉妬だ。


 アレクセイはその美貌と権力ゆえに、男女問わず多くの信奉者がいる。彼らにとって、僕のような「不釣り合いな」人間がそばにいることは、許しがたい冒涜なのだろう。


「何も……しておりません。ただ、薬をお届けしているだけで……」


「嘘をつくな! 毎日何時間も執務室に籠もっていると聞いているぞ」


 男が僕の胸ぐらを掴み上げた。


 強い香水の匂いが鼻を突く。


 アルファ特有の威圧的なフェロモン。


 僕の身体が、本能的に恐怖で縮み上がる。


 抑制薬を飲んでいても、強いアルファに詰め寄られると、オメガとしての防衛本能が働いてしまうのだ。


 震えを止めようと必死に拳を握りしめる。


「……離して、ください」


「ハッ、怯えているのか? ベータのくせに随分とか弱いな」


 男は楽しげに笑い、さらに顔を近づけてきた。


「それとも、本当は違うのか? 身体で奉仕するのが得意な……」


 その言葉が終わる前に、鋭い声が廊下に響き渡った。


「――そこで何をしている」


 空気が一瞬で凍りついた。


 貴族たちが弾かれたように振り返る。


 そこには、氷のような冷気をまとったアレクセイ宰相が立っていた。


 護衛もつけず、ただ一人。


 しかし、その存在感は、この場にいる誰よりも圧倒的だった。


「あ……アレクセイ閣下! こ、これは、その……」


 男は慌てて僕から手を離し、媚びへつらうような笑みを浮かべた。


「この薬師が不作法を働きまして、少し教育をしてやろうかと……」


「教育?」


 アレクセイは片眉を上げ、ゆっくりと近づいてきた。


 カツ、カツ、と靴音が響くたびに、貴族たちの顔色が青ざめていく。


 彼は僕の前に立つと、散らばったハーブと、僕の乱れた襟元を一瞥した。


 アイスブルーの瞳が、剣のように鋭く細められる。


「私の専属薬師に教育が必要なら、私が直接行う。部外者が勝手な真似をするな」


 低い声だったが、そこには明確な殺気が込められていた。


「専属……!?」


 男たちは息を呑んだ。


 ただの出入り業者だと思っていた相手が、宰相直々の「専属」であると宣言されたのだ。


 それはつまり、僕に手を出すことは、アレクセイへの反逆を意味する。


「失せろ。二度と私の視界に入るな」


 冷淡な一言に、貴族たちは這うようにして逃げ去っていった。


 嵐が過ぎ去った後の静寂の中で、僕はへなへなとその場に座り込んでしまった。


 膝が笑って止まらない。


 アレクセイは無言で僕を見下ろすと、大きなため息をついた。


「……情けない顔をするな」


 彼はそう言いながらも、僕の前に手を差し出した。


 白く、美しい手。


 僕は迷いながらも、その手に自分の手を重ねた。


 彼の掌は、やはり熱かった。


「すみません……ご迷惑をおかけしました」


「迷惑ではない。私の所有物に傷がつくのが不愉快なだけだ」


 所有物。


 その言葉に胸がちくりと痛んだが、同時に奇妙な安堵も感じていた。


 彼にとって僕は物でしかない。けれど、少なくとも「大切な物」として扱われている。


 アレクセイは僕の手を引いて立ち上がらせると、乱れた襟元を直すように顎で指図した。


「行くぞ。時間が惜しい」


 彼は僕の手を離さず、そのまま歩き出した。


 廊下を行き交う人々が、驚愕の表情で僕たちを見ている。


 宰相が、一介の薬師の手を引いて歩いているのだ。


 これでは、噂を肯定しているようなものではないか。


「あ、あの、アレクセイ様。手を……」


「黙ってついてこい。お前の匂いがないと、また頭痛がしそうだ」


 彼は振り返りもせず、ただ強く僕の手を握り締めていた。


 その強引さに、僕は何も言えなくなった。


 ただ、繋がれた手から伝わる熱だけが、僕の冷え切った心を少しずつ溶かしていくような気がした。

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