表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
偽りベータの宮廷薬師は、氷の宰相に匂いを嗅がれ溺愛される  作者: 水凪しおん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/12

第4話「閉ざされた執務室の中で」

 アレクセイの銀色の髪が、僕のシャツ越しに触れている。


 彼の呼吸に合わせて、僕の腹部に温かい空気が当たる。


 信じられない光景だった。


 あの冷酷無比で知られる宰相閣下が、まるで親に甘える子供のように、あるいは傷ついた獣が休息を求めるように、僕に寄りかかっているのだから。


 僕はどうしていいか分からず、両手を空中に彷徨わせたまま固まっていた。


「動くな」


 くぐもった声が、腹のあたりから響く。


「このまま……少しだけ、じっとしていろ」


 命令口調だが、そこには懇願に近い響きが含まれていた。


 僕は意を決して、ゆっくりと息を吐き出した。


 拒絶しても無駄なら、受け入れるしかない。


 それに、不思議と嫌悪感はなかった。


 彼の匂い――深く冷たい森のような香り――が、至近距離で僕を包み込む。


 昨夜のような恐怖はない。むしろ、その香りは僕のオメガとしての本能を刺激するどころか、不思議と安心させてくれるようだった。


「……閣下は、いつもこうして我慢しておられたのですか」


 思わず、口をついて出た言葉。


 不敬だったかもしれないと後悔したが、アレクセイは怒らなかった。


「……慣れている」


 彼は顔を埋めたまま答えた。


「雑音も、悪意も、すべて切り捨ててきた。だが、最近は……限界が近かったのかもしれん」


 彼の言葉の端々に、隠しきれない疲労が滲んでいる。


 この国の頂点に立つ男。


 誰もが恐れ、敬う存在。


 けれど、その実態は、あまりに強すぎる力を持て余し、孤独に耐え続ける一人の人間だった。


 僕は無意識のうちに、空中に浮かせていた手を下ろし、そっと彼の頭に触れた。


 銀糸のような髪は、見た目通り滑らかで、驚くほど柔らかかった。


 アレクセイの身体がピクリと反応する。


 怒られるかと思ったが、彼は抵抗しなかった。むしろ、僕の手のひらに押し付けるように、頭を預けてきた。


『まるで、大きな猫みたいだ……』


 そんな不謹慎な感想が頭をよぎる。


 彼の呼吸が深く、ゆっくりとしたものに変わっていく。


 僕もまた、彼のリズムに合わせるように呼吸を整えた。


 窓の外から聞こえてくるはずの衛兵の掛け声や、鳥のさえずりも、この部屋の中では遠い世界の出来事のようだ。


 ここには、僕と彼だけの時間が流れている。


「……お前の匂いは、静かだ」


 しばらくして、アレクセイがつぶやいた。


「薬草の苦味と、その奥にある……甘い花の香り。それが、私の頭の中の嵐を鎮めてくれる」


 甘い花、と言われて心臓が跳ねる。


 それは僕が隠し続けてきたオメガの香りだ。


 本来なら恥ずべきもの、隠すべきものとして生きてきた。


 けれど、彼はそれを「静かだ」と言って必要としてくれる。


 そのことが、僕の胸の奥にある固く閉ざされた扉を、少しだけ叩いたような気がした。


「……お役に立てて、光栄です」


 少し皮肉を込めて言ってみたが、声は震えていたかもしれない。


 アレクセイはふっと口元を緩め、ようやく顔を上げた。


 その瞳は、先ほどよりもずっと澄んでいて、冷たさの中に柔らかな光を宿していた。


「悪くない」


 彼は僕の腰から手を離すと、再び背筋を伸ばし、宰相の顔に戻った。


「今日はもういい。下がれ」


 用が済めば即座に解放。


 その切り替えの早さに呆れつつも、僕は一礼して扉へと向かった。


「ああ、そうだ」


 ドアノブに手をかけた時、背後から声がかかる。


「明日も同じ時間に来い。それと……その薬臭い服は着替えてこい。もう少しマシな服を用意させる」


「えっ、いえ、これは仕事着ですので……」


「命令だ」


 有無を言わせぬ一言。


 僕はため息をつきつつ、「はい」と短く返事をした。


 部屋を出ると、廊下の冷たい空気が火照った頬を撫でる。


 心臓がまだドキドキとうるさかった。


 恐怖からくる動悸なのか、それとも別の何かなのか。


 自分の腹部に、彼の額の熱が残っているような気がして、僕はそこをそっと手で押さえた。


 奇妙な共犯関係。


 弱みを握られたオメガと、感覚過敏のアルファ。


 この歪な関係が、いつか取り返しのつかない事態を引き起こす予感がして、僕は小さく身震いをした。


 けれど、その予感の中には、甘い毒のような期待も混じっていたことを、僕はまだ認められずにいた。


 ***


 その日の夜、僕は再び自分の部屋で薬の調合をしていた。


 アレクセイのそばにいることで、僕自身のホルモンバランスも影響を受けている。


 抑制薬の量を調整しなければならない。


 慎重に天秤を操作していると、ふと、昼間の彼の言葉が蘇った。


『お前の匂いは、静かだ』


 今まで、オメガであることは呪いだと思っていた。


 誰かに迷惑をかけ、欲望の対象にされるだけの、忌むべき性。


 でも、もし僕の存在が、誰かの苦痛を和らげることができるなら。


 それが、あの最強の宰相であるなら。


「……馬鹿だな、僕も」


 自嘲気味につぶやき、僕は完成した紫色の液体を小瓶に詰めた。


 彼に心を許してはいけない。


 彼は取引相手であり、僕の生殺与奪の権を握る支配者なのだから。


 そう自分に言い聞かせても、指先に残る銀髪の感触は、なかなか消えてはくれなかった。


 窓の外では、不穏な風が吹き始めていた。


 宮廷の闇は深く、僕たちの小さな秘密を飲み込もうと、静かに口を開けて待っている。


 翌日から、宮廷内で奇妙な噂が流れ始めることを、僕はまだ知らなかった。


 「氷の宰相が、地味な薬師を寵愛している」


 そんな、ありもしない、けれど核心を突いた噂が。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ