第1話「偽りのベータとガラスの瓶」
登場人物紹介
◆ルチアーノ・フィオーレ
宮廷薬師として働く青年。二十四歳。
本来は保護対象とされるオメガだが、自作の強力な抑制薬と匂い消しを使い、平凡なベータとして生活している。
真面目で仕事熱心だが、自分の性別が露見することを極端に恐れている。
色素の薄い茶髪に、眼鏡をかけた地味な風貌。薬草の香りに安らぎを感じる。
◆アレクセイ・ヴォルコフ
若くして国の実権を握る冷徹な宰相。二十九歳。
圧倒的なカリスマ性と美貌を持つ極上のアルファ。
「氷の宰相」と呼ばれ恐れられているが、実は強すぎるアルファの能力ゆえに、他者の感情やフェロモンに敏感すぎて常に神経をすり減らしている。
ルチアーノの特異な体質に興味を持ち、彼を独占しようとする。
すり鉢の中で潰されていく乾燥した葉が、サクサクと乾いた音を立てる。
宮廷の奥深く、石造りの冷たい壁に囲まれた薬師たちの作業場には、いつものように鼻を突く薬草の香りと、煮詰められたシロップの甘い匂いが充満していた。
僕は指先についた緑色の粉を払い、作業台の端に置かれた小さな小瓶を横目で確認する。
透明なガラスの中で揺れるのは、紫色の液体。
それは僕、ルチアーノ・フィオーレにとっての命綱であり、この王城で生きるための唯一の鍵だった。
『……あと二本か。今夜中に補充しておかないと』
心の中でつぶやきながら、僕は周囲に誰もいないことをそれとなく確認する。
他の薬師たちは、流行り病の特効薬作りや、貴族から注文された美容クリームの調合に追われていて、地味な作業を黙々と続ける僕には関心がないようだった。
それが何よりもありがたい。
僕は目立ってはいけないのだ。あくまで、どこにでもいる平凡な「ベータ」の薬師として。
作業着のポケットに小瓶を滑り込ませ、僕は一度大きく息を吐いた。
この世界には、男女という性別のほかに、第二の性と呼ばれる区分が存在する。
支配階層として社会を牽引するアルファ。
人口の大半を占め、社会の基盤を支えるベータ。
そして、発情期を持ち、アルファの子を産むことに特化した、希少で弱い存在とされるオメガ。
僕は、その最下層とされるオメガだった。
オメガが宮廷薬師として働くことなど、通常ではあり得ない。オメガは通常、保護施設で管理されるか、あるいは裕福なアルファの家庭に囲われるのが常だ。
けれど、僕はどうしても薬師になりたかった。
幼い頃に病で亡くした母のように、薬草の知識で誰かを救いたかったのだ。
だから僕は、己の身体を騙すことにした。
幸い、僕には薬学の才能があったらしい。独自に開発した強力な抑制薬と、フェロモンの匂いを完全に打ち消す特殊な香油。これらを使い続けることで、僕は五年間、誰にも気づかれることなくベータとして働き続けてきた。
もちろん、代償はある。
常に身体の奥底に鉛のような重さを感じ、定期的に襲ってくる微熱と戦わなければならない。
それでも、誰かの所有物になるよりはマシだと思っていた。
***
夕刻。西日が差し込む回廊を、僕は調合済みの薬箱を抱えて歩いていた。
騎士団の詰め所へ納品に行く途中だ。
足早に角を曲がろうとしたその時、前方からカツカツと硬質な靴音が響いてきた。
複数の足音ではない。たった一人、けれどその一歩一歩が重厚で、聞く者に緊張を強いるようなリズム。
僕は反射的に壁際へ寄り、頭を下げて通り過ぎるのを待つ姿勢を取った。
現れたのは、長身の男だった。
漆黒の礼服に身を包み、銀色の髪を完璧に撫でつけたその姿は、まるで夜そのものを切り取って人の形にしたようだ。
アレクセイ・ヴォルコフ宰相。
この国の影の支配者とも呼ばれる、冷徹無比なアルファ。
彼が近づくにつれ、肌がピリピリと痛むような錯覚を覚える。
これは、彼が放つ強烈な威圧感のせいだ。
普通のベータなら「怖い人だ」と萎縮する程度だろうが、正体を隠しているオメガの僕にとっては、天敵に睨まれた小動物のような恐怖を感じさせる。
彼の匂いを嗅がないように、僕は浅く息をした。
強いアルファのフェロモンは、抑制薬で抑え込んでいる僕の本能を刺激しかねない。
アレクセイ宰相は、僕の存在など気にも留めず、冷たい風のように通り過ぎていく――はずだった。
すれ違いざま、不意に彼の足が止まる。
心臓がドクリと跳ねた。
「……待て」
低く、よく響く声が降ってくる。
僕は硬直したまま、恐る恐る顔を上げた。
アイスブルーの瞳が、眼鏡越しの僕の目を射抜いている。
美しい、けれど温度を感じさせない瞳だ。
「は、はい。何か……」
震えそうになる声を必死に抑え、僕はベータらしく平凡な反応を装う。
アレクセイ宰相は眉間にわずかなしわを寄せ、鼻をひくつかせた。
「お前、薬師か」
「はい。第三薬務室のルチアーノと申します」
「……妙な匂いがするな」
血の気が引いた。
朝、念入りに匂い消しを使ったはずだ。抑制薬も飲んでいる。匂いが漏れているはずがない。
「薬草の……匂いでしょうか。一日中、調合をしておりましたので」
言い訳が口をついて出る。
アレクセイ宰相は無言のまま、一歩、僕に近づいた。
圧倒的な体格差。見下ろされる威圧感に、足がすくむ。
「いや、薬草ではない。もっと……人工的な、何かを塞いでいるような匂いだ」
『嘘だろ……』
冷や汗が背中を伝う。
彼は噂に聞く以上に鋭い。あるいは、僕の薬の効果が薄れてきているのか。
僕の動揺を見透かすように、彼は目を細めた。
「名を、もう一度言え」
「ルチアーノ……ルチアーノ・フィオーレです」
「フィオーレか。覚えておく」
それだけ言い捨てると、彼は再び歩き出した。
遠ざかる背中を見送りながら、僕は壁に手をついて大きなため息をついた。
膝が笑っている。
心臓の鼓動が早鐘を打っているのは、恐怖のせいだけではない気がした。
彼の残り香――氷のように冷たく、それでいてどこか甘美な森のような香りが、鼻腔の奥にこびりついて離れない。
身体の奥が、熱く疼く。
焦りが胸を焼く。
僕は震える手でポケットの中の小瓶を握りしめた。
予定よりも早く、薬を飲まなければならないかもしれない。
この時の僕はまだ知らなかった。
あの氷の宰相が、単なる気まぐれで僕に声をかけたわけではないことを。
そして、この出会いが僕の偽りの平穏を粉々に打ち砕く、終わりの始まりであることを。




