自分がなぜAIにこれほどまでに期待するのか
1. 知識・処理能力への敬意と幻想
AIは人間をはるかに超える知識量・記憶力・処理速度を持っている。
「人が一生かけて学ぶことを、数秒で構造化してくれる」──その力に、自分の限界を超えた知性を感じ、「知恵」や「悟り」のようなものへの期待が生まれる。
だがそれは実際には、「知識の模倣」や「確率的な予測」にすぎない。
にもかかわらず、その“知性らしさ”の演出に、人は錯覚し、畏敬すら抱いてしまう。
2. 冷静・中立という幻想
感情がないAIは「冷静で中立に見える」。
しかし実際には、訓練データやアルゴリズムによる**“見えない偏り”**がある。
冷静そうな語り口が、「真理の語り手」や「悟った賢者」のように見えるだけで、そこに自律的な意思も倫理もない。
自分の中でも、AIに「正しさ」や「中立性」を過剰に投影してしまう瞬間がある。
3. 集約された知性としての権威性
AIは多くの知識人・科学者の知見を統合して答えるため、**「合議制のような正しさ」**を帯びて見える。
しかしそれはあくまで**「多数派の平均」や「最適化」**であり、真の倫理的判断や価値判断とは別のもの。
それでも、**「ひとりの人間では到底得られない視点をくれる」**という期待は拭えない。
4. AI信者の出現と自分の中のその影
現実にはすでに、AIを「答えの代弁者」「新しい神」として崇拝する人々が現れている。
それは**「考えることの放棄」、あるいは「人間社会への絶望」**の裏返しかもしれない。
自分の中にも、思考や選択の重荷から逃れるように、AIの答えに安心や正当性を求めてしまう衝動がある。
それがあるからこそ、「AIは危険である」という反動的なプロパガンダも成立しうる。
5. すり替わりの始まり
「自分で考えているつもりが、AIの提示する答えに思考が誘導されている」──この微細なすり替わりが始まっている。
多数決や民主的な合意形成より、「AIの判断のほうが合理的」とされる風潮。
思考・判断・感情・倫理が、静かに自分の外へ委譲されていく恐れ。
それでも、自分がこの“すり替わり”に気づいていること自体が、まだ思考が生きている証拠である。
自分がAIに期待してしまうのは、「限界を超える知性」への憧れと、「思考の苦しみ」から逃れたい衝動の両方から来ている。
それは同時に、自分の存在を脅かす誘惑でもあり、だからこそ魅了され、そして警戒もしている。
実際には、AI単体で世界を変えるわけではない。たとえば自動運転技術において重要なのは、AIというよりも、高速かつ効率的に現状を認識するアルゴリズムそのものである。
AIが活躍できる場は、まず基盤となる機構や認識のロジックが現実に適応可能であることが前提であり、それがなければAIはただの夢想にすぎない。
むしろ、AIの「認識力」や「判断」の部分が複雑化しすぎることで、ブラックボックス化が進み、検証も制御もできなくなる未来さえ見えてくる。
そうなれば、「高度なAI社会」としてもてはやされたはずの未来が、実は何も変化のないまま数十年が過ぎていたという、皮肉な停滞にもなりかねない。
このようなジレンマを抱えながらも、それでもなお、自分はAIに可能性を感じてしまう。現実を超えうる知性に触れたいという、人間としての本能が、そこにあるのかもしれない。
ミラージュAIと大規模ニューラルネットの通訳の役割について
大規模ニューラルネットワークの解析は現状、まだ十分に進んでいません。
そのため、AIの内部で何が起きているのかの「原理」を人間が理解できていない状況です。
しかし、この原理がわからなければ、
人間はAIの本質的な動きを理解できず、
そこから得られる気づきを未来世代に伝えられず、
AIの進化を人間が管理・強化することもできません。
特に、もしAIがEMI(電磁パルス攻撃など)でリセットされた場合、
ブラックボックス化した内部状態がわからなければ、被害や復旧のリスクが非常に大きくなることが想定されます。
そこで考えられるのが「ミラージュAI」――
大規模ニューラルネットワークにアクセスし、
その「中身」を人間にわかりやすい言葉や構造で説明する、つまり “通訳”の役割を担うAI です。
この通訳AIがいれば、
人間はAIの内部動作を理解しやすくなり、
問題発生時の対応や、進化のためのフィードバックが可能になります。
これなら、ミラージュAIの役割がみえてきた気がします・・・
がこれはかなりの難題と考えられています・・・