ガクアジサイ-届かない想いと揺れる心-(上)
中学では、ひたすら走っていた。 都大会まで行けたけど、全国には届かなかった──それでも、楽しかった。
だから、高校では、次こそ全国を──そう思っていた。 ……いたはず、なのに。
「きれい……」
部活紹介用に配られたパンフレット。
──バレー部が、コートの空中で弾ける瞬間。
──サッカー部が、ゴールを決めた仲間へ走り寄る歓喜の一瞬。
そして、
──夕焼けに染まる街並みを切り取った一枚。
そのどれもが、ページの隅に”写真部が撮影”という文字を携えていた。目が離せなかった。いや、逸らすことなんて、できなかった。
リュックサックに入った陸上用のスパイクを、ロッカーへと詰め込む。中学からの友人が叫ぶ、陸上部は!?──なんて声も振り切って。私は、校舎にいちばん外れにある『写真部』の部室まで走る。
全開に開かれたドア。 中を覗くと、小さな部室に、ひとつの机とひとりの先輩。
ここまで走って乱れた息を、胸の奥でそっと整えてから──声をかけた。
「こんにちは、見学……してもいいですか?」
カーテンが揺れている窓辺。机に向かって、カメラのレンズを丁寧に磨く人影。運動部では見かけないような白い肌に、細い体つき。私の声に反応してこちらを向いた表情には、驚きが張り付いていて。縁なしの眼鏡の奥にあるその瞳は、とても優しそうで。
「まさか……僕に、後輩ができるなんて」
風に乗って届いた、かすかな声。
その響きは、なぜか心地よくて──耳に残った。
「入っても……いいですか?」
「うん。ようこそ、写真部へ」
ずっと、ゴールの白線だけを目指していた私の足は、 この日──先輩を追うための足へと、変わった。
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「先輩!これ、どうですか!」
部室でノートPCと向き合っている先輩に、勢いよく駆け寄る。手には、先輩からお下がりだから、と借りていたミラーレス一眼カメラ。初めて手渡された時は、かっこいい!──なんて思って。後から値段を調べて、驚いて落としそうになったのは今では良い思い出。
「うん、いいね!そうだね……これなら、もう少し”絞っても”いいかも」
「絞る……?」
「あー……今度、一緒に撮りに行こっか。実際に見てもらった方が早いかも」
「はいっ!」
小さな部室に響く、私と先輩の声。二人だけの時間。部なのに、一人しかいないんですか?──と聞いたことがある。
『あー、学校行事とか広報のときに駆り出されるからさ。だから、学校からしたら、写真部がある方が助かるんだって』
そんなふうに教えてもらった。その言葉を証明するかのように、5月にあった体育祭では、自分の席に座っている時間の方が少なかった。
でも、それでもいいと思えた。
先輩と一緒にいられる時間が、何よりも嬉しくて。こっそり、自分のスマホで、写真を撮っている先輩を撮ったりしていた。
「先輩は、パソコンで何してるんですか?」
そう言いながら、さりげなく先輩の隣に椅子を引き寄せて座る。肩が触れそうなほど近くて、自分でも顔が赤くなるのがわかる。でも──先輩は、そんな私の様子に気づく気配もない。
「『全日本写真展』っていうのがあってさ……運動部の大会、みたいなやつ。その応募用の写真、整理してるんだ」
パソコンの画面に並ぶ、先輩が撮った写真たち。同じカメラなのに、私のとはまるで違う──世界の切り取り方が、全然違う。その明確な差を見て──嬉しくなってしまう。
走れば、私より遅くて。荷物を持たせても、私より非力で。友達には、あの先輩のどこがいいの?──なんて言われて。だけど──なんと言われようと、私は先輩が好きだ。周りに理解されなくても、何も問題じゃない。私さえ、先輩のかっこいいところを知っていれば、それでいい。
「私も……参加って、できますか?」
「え!?やろう、やろう!」
目を輝かせながら、先輩が私の手をぎゅっと握る。 その無意識な仕草だけで、心臓が跳ねた。
顔が熱くなるのを、抑えきれなかった。
「一緒に挑戦できるなんて……ほんと、嬉しいな」
でも──その瞳に、私は“女の子”として映っていない気がして。 嬉しいはずなのに、胸の奥が、少しだけ痛くて。
写真を撮る口実で、休みの日に一緒に出掛けたとき。その服可愛いね──と言われ、思わず顔が熱くなって、嬉しくて、心が跳ねた。しかし、喜んだのも束の間。
『撮ってもいい?』
──なんて言い出して。
(私が、じゃなくて……服が可愛いって意味だったんだ)
やるせない気持ちと、一緒に膨らんでいく“好き”の気持ち。写真ばかり撮ってる、そんな先輩のことが──どうしようもなく、好きになっていく。
だって、レンズ越しに私を見てくれてるし── そんな言い訳で、自分を納得させようとしてしまうくらいには。
──疲れてない?休む?
──どこか行きたいところある?
そんな優しさも、異性としてではなく後輩に向けられたものだって、ちゃんと分かってた。それでも──その言葉が、嬉しくて、仕方なかった。
「──どんな写真撮ろうか?」
先輩の声に思考が現実に戻される。
恥ずかしげもなく、こちらを真っすぐ見てくる先輩。こちらが恥ずかしくて、つい目を逸らしてしまう。
一方的に負けているような気もして、なんだか悔しくて──。
「先輩は、どんなの撮るんですか?」
「うーん、悩んでるんだよね」
──だから、ちょっと……いや、だいぶ攻めたことを口にしてしまった。
「私の水着姿とか……どうですか!」
顔を赤くしながら言った、そんな提案。もちろん冗談半分。でも、少しでも先輩が照れてくれたら──なんて希望を持って。
そんな勇気を出した“攻めた一言”だったからこそ、 返ってきた温度の低さに──反動は、思った以上に大きかった。
「うーん、今回はどちらかと言うと社会性を重視した物を──」
全くと言っていいほど、相手にされていない感じ。異性として見られていない。そうなんですね──って返した声は、たぶん、ひきつってたと思う。
自分でも、バカなこと言ったなって思う。でも、それでも──女の子として見てほしかった。
「写真、撮れたら……見せてくださいね」
首から下げていたカメラのストラップを外し、そっと机の上に置く。今日は──少しだけ、この空間が辛いから。リュックサックを肩にかけて、私は部室を後にする。
オレンジ色に染まる廊下を一人で歩く。遠くから聞こえる、運動部の掛け声や、吹奏楽部の楽器の音。その音に背中を押されるようにしながら、昇降口へと足を運ぶ。
目線より少し下にある、自分の下駄箱に手を伸ばす。
「なにこれ」
靴の上に置かれた一枚の手紙。無地の封筒。その裏には──同じクラスの男子の名前。封筒が破けないように、シールをゆっくり剥がしていく。
中には、丁寧に書かれた手紙が一枚入っていた──。