喫茶店-第四輪-
店内に並ぶテーブル席の一つ。小さなガラス瓶に生けられた向日葵が、その席だけを明るく照らしていた。
私は、いつの間にか添えていた指先を、そっと花から離す。
学生の頃、胸の奥にしまったままだった気持ち。大人になっても消えなかったそれは、けれど──いつも、あの人の隣には誰かがいた。そんな記憶。
「向日葵の花言葉は『憧れ』と『愛慕』なんですよ」
ふと顔を上げると、マスターがいつの間にか正面に座っていた。花を見つめていた私の心を、そっと読み取ったように、穏やかな声で言った。
「花の名前も、花言葉も、太陽を追う姿が由来らしいですよ」
「……マスターって、お花のこと、ほんとに詳しいですよね」
彼岸花、アネモネ、そして向日葵。いつも、マスターの口から語られる花の話は、言葉の一つひとつに温度があって──まるで、その花に触れてきた人のようだった。
「マスターって……喫茶店の店長、じゃないんです──」
言いかけて、ふと、言葉が喉で止まった。
──そもそも、マスターって“人”なんだろうか?
顔はずっと、モヤが掛かったまま。なのに、その声は、どこまでも穏やかで、優しい。見えない顔の奥に、私が知っている何かがあるような、そんな不思議な懐かしさが、胸に滲んだ。
「どうされました?私の顔に、なにか?」
「あっ、いや……」
その問いに、言葉が喉元で詰まる。“マスターって、人なんですか?”なんて、聞けるわけがなかった。
代わりに、テーブルに置いてあった空のマグカップを手に取り、マスターに差し出す。
「……おかわり、もらってもいいですか?」
「えぇ、もちろん」
私の問いかけが、話題を逸らすためだったと気づいていながら──マスターは何も言わず、カウンターの奥へと戻っていった。
テーブルに肘をつき、顔を手のひらに預けたまま、マスターの後ろ姿を眺める。私よりも頭ひとつ分は高く、細身でどこか中性的な体つき。
(やっぱり……マスターを見てると、胸の奥がざわめく)
最初は、見知らぬ場所への不安が原因だと思っていた。でも今は違う。記憶を取り戻そうと決めた今、この胸のざわつきは──マスター自身に起因しているのだと、はっきりわかる。
私の思い出せない記憶の中に、喫茶店があったのだろうか。マスターのような誰かが、そこにいたのだろうか。
視線を逸らすことなく、カフェオレを淹れるその横顔を追う。動作の一つひとつが、丁寧で美しくて──見ているだけで、心が静まっていく。もしかしたら、あの穏やかな人柄も、そう感じさせているのかもしれない。
そんなことを考えていると、ふと気配を感じた。顔を上げると、マスターがマグカップを手に静かに立っていた。
「お待たせしました。カフェオレのおかわりです」
テーブルに置かれたマグカップから、ふわりと湯気が立ち上る。表面にはミルクのラインが柔らかく波打ち、見ているだけで心がほどけていくようだった。
「それと、よければこちらもどうぞ」
続いて置かれたのは、手のひらほどの小さなガラスの器。
丸みを帯びた透明なコップの中には、涼やかな青と紫のゼリーが揺れていて、その下には真っ白なケーキが控えていた。
「上は紫陽花ゼリー、下はレアチーズケーキです。カフェオレにもあうと思います」
「紫陽花ゼリー……紫陽花が入ってるんですか?」
「いえ、見た目の色合いが似てるだけですね」
少し拍子抜けしながら、ゼリーをスプーンですくって口に運ぶ。爽やかな甘さがふわりと広がって、思わず目を細める。
「紫陽花は、大きく分けると『ホンアジサイ』『ガクアジサイ』『西洋アジサイ』の三種類があるそうですよ」
スプーンを下に滑らせると、レアチーズケーキが顔をのぞかせる。その柔らかな白をすくいながら、マスターの話に静かに耳を傾けた。
紫陽花といえば、全体的に丸い、ふんわりとした花──そんなイメージしかなかった。けれど、マスターの言葉に、少しだけ興味が湧く。
「紫陽花と言えばこれ、というのが『ホンアジサイ』ですね。手まりのように丸く花を付けます」
公園の片隅や、小さな路地に咲いていた花を思い出す。あの紫陽花が、『ホンアジサイ』というのだと、ようやく名前と形が結びついた。
「そして『ガクアジサイ』は……お見せした方が早いですね」
マスターがカウンターに戻り、一輪の花を活けたガラスの花瓶を持ってくる。そっとテーブルに置かれたそれは、中央に小さな花が集まり、その周りを、大きな花がふわりと囲っていた。
「実は、こちらの『ガクアジサイ』が、紫陽花の原種らしいですよ」
マスターの言葉に、私は思わず感心する。
スプーンを手に取り、ケーキを一口すくって口に運ぼうとした、そのとき──ガラスの音が、軽く響いた。見ると、透明な器の中は空っぽになっていた。
いつの間にか全部食べ終えていたことに気づき、少しだけ恥ずかしくなる。
「『ガクアジサイ』の中心にある小さな花を指して、花言葉は”謙虚”。そして──紫陽花全体の花言葉として、“移り気”という言葉もあるんです。花の色が変わることが、その由来なんですよ」
マスターの静かな声が、柔らかくテーブルに落ちてくる。まるで、その花に触れるような優しさで。
最後までお読み頂き、ありがとうございます。
地の文と会話文の前後に改行を入れてみましたが
どちらが読みやすいですかね。
ご意見、お待ちしてます。