向日葵 -憧れと愛慕の再開-
その日は、仕事の関係でいつもは使わない駅にやって来ていた。
地下鉄特有の、こもったような熱気。電車が通り過ぎるたび、強い風が一瞬だけその空気をかき回す。
スーツの裾を風に揺らしながら、俺は人が少ない場所を求めてホームの端へと向かう。慣れない構内で気が滅入り、自然と視線は足元ばかりを追っていた。
ふと視線を上げると、小さなキーケースが落ちていた。パステルカラーの革製で、女性の持ち物に見える。
少し前を歩く女性に向かって声をかける。
「すみません。これ、落としましたよ」
拾ったキーケースを差し出すと、女性は一瞬だけ戸惑ったように目を瞬かせ、慌てて自分のカバンの中を漁る。カバンに見当たらなかったのか、キーケースを受け取った女性は、その場で中身を確認する。
キーケースを開いたそのとき、鍵と一緒に、懐かしいキーホルダーがふと顔を出す。見覚えのあるキーホルダー。高校で、手作りだから──と色違いの片方を貰ったのを憶えている。
中身を確かめていた女性が、ふと顔を上げた。
「ありがとうございます。中身も全部ありました」
よく知っている顔だった──けれど、もう10年近く会っていなかった人。
「……先輩、ですか?」
口が、その言葉を懐かしいと叫ぶ。
その声に、彼女がわずかに眉を動かす。そして、まっすぐに俺の顔を見つめてきた。
「あ……久しぶり、だね」
特急電車が通り過ぎ、風が吹く。先輩の腰まで伸びた髪がふわりと舞い上がり、その一瞬が──卒業式の日、最後に見た光景と重なった。
ホームに、静かに目的の電車が入ってくる。
名残惜しさを飲み込みながら、短い会話と連絡先を交わして、その場をあとにする。その晩、あの頃をなぞるような連絡が届く。
──今週末の金曜日、この駅前に19時集合!
変わってなかった。あの頃と同じ、強引な誘い方。”了解”とだけ返す。あの頃と同じ、少し一方的で、それでいて心地いいやり取りに、自然と笑みがこぼれた。
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金曜日、約束の19時を30分ほど過ぎた頃。
「ごめん!待たせた!」
駅から走ってくる先輩を見た瞬間、思わず笑ってしまった。
「遅刻ですよ、先輩」
俺の言葉に、先輩はあの頃と同じ様に“体当たり”で返してくる。照れなのか、気まずさを誤魔化すためなのか。高校の頃から変わらないそんな先輩に、懐かしさが込み上げる。
「変わらないですね、先輩」
「……うるさいな!」
あの頃のように、俺の手首を掴んで引っ張っていく。俺はそれに逆らわず、ただ先輩の背中を追う。
制服からスーツに、夕方から夜に──いくつかの違いはあっても、10年前の記憶をなぞるようなその光景が、無性に嬉しかった。
「行く場所、分かってるんですか」
「任せときなさいって」
そんな短いやり取りすら、まるで昔を再現しているみたいで──あぁ、本当に先輩なんだ、と胸が弾んだ。
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「卒業以来だから……10年ぶり?あんた、変わってなさ過ぎー」
「先輩……飲みすぎですって。それ、もう3回目です」
先輩に連れていかれた居酒屋。
今日は私の奢りだから──と、先輩は遠慮なく次々に注文を入れていく。俺がジョッキを空にする頃には、2杯目が空になる勢い。
酒ばかりで腹を満たそうとする先輩に、枝豆や焼き鳥をどんどん取り皿に載せていく。どっちが年上なんだか──そう思いながら、自然と笑みがこぼれた。
「今日はねー、金曜日だからいいんです。それに、感動の再開じゃないですか?今飲まないで、いつ飲むのさー」
「それにしたって飲みすぎですよ……」
先輩は絡み酒なのか、とため息を吐く。それを、何かのストレスと勘違いしたのか、さらに絡んでくる先輩。
──仕事はどうなのか?
──嫌なことはないのか?
(変わらないな、こういうとこ)
酔ってなくてもお節介なのに、酔ってたらなおさらだ。そう思って、つい笑ってしまった。
徐々に、俺の話から先輩の話へと移っていく。
──あんの上司……私だって頑張ってるんだよー。
弱音を吐いたかと思えば、次の瞬間には笑顔で後輩の話になる。
──うちの子がさー、これやってくれてさ。
そう言って、目を細めながら楽しそうに自慢している先輩。その目は──何も変わらない先輩。けれど、それだけじゃない。今まで見せたことのない、弱さや悩みを打ち明けてくれる“今の先輩”も、そこにいた。
怒って、泣いて、笑って──表情豊かなその横顔を見ていると、つられて俺も笑っていた。10年という時間を、少しずつ、確かに埋めていくように。
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「ぎもぢわるい……」
今にも吐きそうな先輩に肩を貸し、店をあとにする。
人混みを避けながら、先輩の指示する通りに歩みを進める。こうなることが分かっていたから、先輩の家の最寄駅にしたのか──と心の中でため息をつく。
「うぅぅ……」
肩を貸しているせいで、距離は自然と近い。先輩の髪からふと漂ってくる匂いに、記憶が揺さぶられる。
「タクシーでも呼びましょうか?」
「いや……風に当たれば……そこ曲がれば河川敷だから」
先輩に言われた道を曲がると、そこは確かに河川敷だった。誰もいない夜の河川敷。川辺から吹く風が、アルコールで火照った体を覚ましていく。
「ありがとね。ここからは一人で歩けるから」
そう言って、先輩は回していた腕を離す。腕が離れていくことに対して無意識に、あっ──と声が漏れてしまい、顔を背ける。
「ん?どした」
俺の顔を覗き、心配そうに声をかける先輩。その心配する表情が真剣だから、余計に気まずくて。
「あっ、いや何でもないです。……それより、ここからどう行けばいいんですか?」
「お?送ってくれるのかい」
「まぁ……先輩も、一応女性ですし」
「え?一応?」
送っていきたいと思ったのは、ただ──もう少し一緒にいたかったから。それを自覚しているからこそ、照れ隠しに悪態をつく。
先輩も、それが冗談だって分かっている。だからちゃんと、笑って文句を返してくれる。
この関係が好きだった。心地よくて、自然で。長く隣にいて、気づいたときには──もう、先輩のことが好きになっていた。でも、その気持ちを伝える勇気だけは、持てなかった。
「こうやって、二人で歩くのも久しぶりだね」
少し先を歩いていた先輩が振り返り、柔らかく笑いかけてくる。その笑顔を見た瞬間、やっと気がついた。
あぁ、俺は──今でも先輩のことが好きなんだ、と。
けれどその気持ちを、今も昔も、伝える勇気なんて持ち合わせていない。だから俺は、ただその笑顔を見つめることしかできなかった。
「……え、なんでそんなに見つめられてるの?」
「自意識過剰ですよ」
素直になれずに返すのは、いつだってそんな子どもみたいな悪態ばかり。
「君ってさ、昔から私にだけ、やたら冷たくない?」
「気のせいじゃないですかね」
好きな子に意地悪をしたくなる、小学生男子みたいな態度。
そんなことしたって、気持ちが伝わるわけじゃないと分かっていたのに。それでも──伝えることはできなかった。臆病だったから。自信がなかったから。何より──俺が、先輩と出会うのが遅すぎたから。
「先輩」
「んー?どしたー」
酔っているせいか、少しふらつきながらも楽しそうに歩く、その背中。昔も今も、ずっと好きだった人。好きで、好きで、後輩という立場を利用して、その隣を独占しようとした。けれど──先輩の隣には、いつだって“他の誰か”がいて。
悲しい過去を思い出し、現実を受け入れられず、弱い俺は──言ってはいけない言葉を、つい口にしてしまった。
「俺、先輩のこと──」
「なんで私たちは、いつも間が悪いんだろうね」
楽しげだった先ほどの声とは違う、少しだけ沈んだ声が、俺の言葉を遮った。足を止めることなく、先輩はゆっくりとこちらを振り返る。
「二つ違いって大きいよね。私が3年になって、やっと君が入学してきたんだもの。そりゃぁ……自分の気持ちに気づいた時には、私は卒業だわな」
懐かしむように話すその表情には、笑みがあった。けれど、その笑みには力がなかった。
「あーあ、ほんと……なんで、また会っちゃうのかなぁ」
先輩は少し先で立ち止まり、空を見上げる。まるで、なにかをこらえるかのように。
「せっかく……忘れてたのにさぁ」
そう呟いた声は、風にかき消されそうなくらい、小さくて。
今にも崩れてしまいそうな、見たことのない先輩。伸ばしていいのかも分からない手を、それでも先輩に向けて伸ばす。けれど、その腕が伸びきる前に、先輩がこちらを見る。
「ねぇ……私の気持ちって、もしかして独りよがりなのかなぁ……もし違うならさ──」
先輩がゆっくりと、こちらに歩いてくる。泣き出しそうな顔で。
受け止めたい。いや、受け止めさせてほしい。そんな気持ちが、心の底から湧き上がる。
「私さ……ずっと君のことが──」
言ってほしい。その続きを。そもそも、最初に言おうとしていたのは、俺の方だった。
好きでした──そんな言葉が今にもこぼれ落ちそうで。しかし、その言葉を、俺は先輩の左手を見て飲み込む。
代わりに口をついたのは、残酷な一言。
「先輩。旦那さんのこと、好きですか?」
「っ……」
動揺に染まる先輩の顔。口を開きかけては、また閉じる。その繰り返し。
きっと、分かっているのだ。今、何を言おうとしていたのか。それが、口にしてはいけない言葉だったことも。
もう“恋愛ごっこ”をしていい年齢じゃない。
「わ、私はっ──」
「先輩」
俺は、なんてずるいんだろう。
元をたどれば、先に言おうとしたのは俺の方だったのに。駅で気づいていたのに──誘いを断ればよかった。連絡先を交換なんて、すべきじゃなかった。
結局、俺は先輩を、また傷つけただけだった。
「先輩。また……いつか、飲みにでも誘ってください」
頭の良い先輩なら、この”いつか”の意味にも気づくはずだ。その証拠に、先ほどまで堪えていた涙が頬を伝って零れ落ちている。
「先輩」
いつも優しく、時に厳しく、俺にいろんなことを教えてくれた人。部の代表として、委員会の代表として、常に胸を張って歩いていた人。高校生活を語るうえで、なくてはならない人。
そんな先輩が、今は”嫌だ”と言うように頬を濡らしている。でも、頭のいい先輩は、知っているのだ。いま、手を伸ばすことはしてはいけないと。
「先輩と出会えて、幸せでした」
本当は、もっと突き放す言葉を言うべきだったのかもしれない。それが言えない俺は、最後の最後まで、臆病者だった。
「今まで、ありがとうございました」
頭を下げ、先輩に背を向ける。
静寂に包まれた河川敷。川の音に紛れて、少し歩いたところで──後ろから、小さな声が聞こえた気がした。
「私の方こそ……今までありがとう」
家まで送るとか言っておきながら、結局、その言葉すら守れなかった。俺と別れたあと、無事に家に帰れましたか?──なんて、いつか訊ける日が来るだろうか。
そんなことを考え、思わず後ろを振り返る。でも──河川敷には、もう誰もいなくて。
「先輩……ずっと、好きでした」
届かないと分かっているから、口にする言葉。しかし、一度出してしまった言葉は、止まる事なく漏れていく。
──ずっと、ずっと好きでした。
高校生の頃は、先輩には彼氏がいたから諦めた。
今も、先輩の隣には誰かがいるから諦める。
それでも、届かない、届けない言葉なら口にしても許される気がして。
「ほんと、なんで今さら出会っちゃうかなぁ」
卒業以来、一度も連絡を取っていなかったくせに、どうして今さら。そんな運命を恨みたくなる出会い。
それでも、やっぱり会えた嬉しさの方が大きくて──先輩が去った方から目を逸らしたくて空を見上げる。そこには、冬の高い夜空が広がっていた。高校時代に、先輩とこんな空を一緒に見たなぁ──なんて記憶を懐かしむ。
「あー……さむっ」
さっきまで寒さなんて感じなかったのに、今は急に、風が身に染みる。
「酒が……抜けたのかなぁ」
これから、一人自分の家に帰ることを想像し、今まで隣にあった手の温度や、声の響きがふと蘇る。そんな記憶を忘れるように、俺はひとり、まだ空いている居酒屋を探して、元来た道を戻る。
第1弾目の投稿はここまでとなります。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
基本的には月・金曜日を目処に投稿していきたいと考えています。
最後までお付き合い頂ければ嬉しいです。
よろしくお願いします。