喫茶店-第三輪-
カップの中の液面をぼんやり眺めていたときだった。
「これからどうされますか?」
不意に掛けられた声が、胸の奥にふわりと漂っていた“記憶”を、まるで霧のように消してしまった。
一週間に一度、放課後だけに訪れる静かな時間。儚いけれど──今でも胸に残っている、大切な記憶。
「これから……」
ほんの少しだけ記憶の断片を覗いたせいか、自分自身の空っぽさが際立つ。嬉しかった記憶も、泣くほど悔しかった記憶も──何一つ、思い出せない。甘い恋の余韻も、失恋の痛みも、どこにも残っていない。
大切な何かを置き去りにしてきたような感覚。胸の奥がざわめき、息を吸うたびに、冷たい焦燥が肺の中に広がっていく。
「たまに、記憶を忘れてしまう方がいらっしゃいます。──今の、貴女のように」
私が言葉に詰まったのを察して、マスターがそっと口を開いた。
「喫茶店にいらっしゃる方は、例外なく大切な思い出を持って来られます」
「で、でも……私、本当に何も思い出せなくて……!」
「──"記憶"として、ないだけです」
私の言葉を遮るように、マスターが言葉を被せる。
記憶としてないだけ──その"記憶"がないと言っているにも関わらず、何かを持っていると言うマスターの言葉に困惑してしまう。
「マスターの言葉……よくわかりません。気づいたら暗闇にいて、何も思い出せなくて……でも、何か大切なことを忘れているような気もして」
声に出した瞬間、不安が現実になった気がして、胸のあたりがざわめいた。
──どうして、私は忘れてしまったの?
──どうして、私を思い出してくれないの……?
その声は、誰のものだったのだろう。誰かに責められているようで、同時に、自分自身がそう問いかけている気もする。
不安、焦り、そして喪失の痛み。感情の波が、一気に押し寄せてきた。
「今、貴女が抱いているであろう感情──それこそが、記憶が残っている証です。記憶が“ない”のではありません。ただ、“思い出せない”だけなんです」
「……思い出せない、だけ……」
マスターがカウンターを出て、こちら側に回ってくる。私の隣に静かに腰を下ろし、その手には私と同じカップ。黒く沈んだ液面から、わずかに苦い香りが立ちのぼっていた。
その姿が、なぜか妙に懐かしかった。覚えているはずのない光景なのに──胸の奥が、かすかに疼いた。私の隣にも、誰かいた気がする。そんな“気がする”だけの感覚が、妙に現実味を帯びていた。
「稀に……貴女のように、自分の記憶を思い出したくないと、心が拒んでしまう方がいらっしゃいます」
「……それって、思い出すのが辛いほど……悲しい記憶、ってことですか?」
思い出せないんじゃなくて、思い出したくない。そんな感情があるなんて、少し信じがたくて──けれど、もし本当にそうだとしたら。私の記憶は、そんなにも痛いものだったのだろうか?
……でも、それならどうして。どうして私は、その記憶を“最後まで”持って、喫茶店に来たのだろう。
「貴女の記憶が、悲しいものではない──とは言い切れません。ですが……幸せだった記憶である可能性も、十分にあります」
マスターの声が、そっと響く。
「心が目を背けようとしているのは……それを失うことが、怖いから。この世を去り、それを置いていかなくてはならないという現実に、貴女の心がまだ向き合えないから」
幸せな記憶を失うくらいなら、いっそ最初から──なかったことにしたい。それが、私の心が選んだ“守り方”なのだとしたら。
「私の忘れている記憶って……そんなに、忘れたくないほど“幸せな”ものなんですよね」
「えぇ、おそらく」
マスターの静かな肯定に、胸が少し震える。
視線を落としたまま、カップを手に取る。冷えきったカフェオレを一気に飲み干し──自分を叱咤する。そして、意を決して顔を上げる。
勢いそのままに、私は体ごとマスターの方へ身を乗り出した。
「……どうやったら、記憶って思い出せますか!」
その迫力に押されたのか、マスターは目を丸くし──そして、思わず吹き出すように笑った。
「な、何が面白いんですか……」
「あぁ、いえいえ。決して、貴女を笑ったわけでは──」
マスターは慌てて首を振ると、どこか照れたように続けた。
「ただ……なんと言いますか。嬉しくて、ですね」
歯切れの悪いその言い回しに、私は不満げな視線を送る。けれどマスターは、それをあえて受け流すように立ち上がり、またカウンターの向こう側へと戻っていった。
「いろいろな“思い出”を、まずは貴女自身に見せてあげてください。そして、心のどこかで納得してあげてほしいのです。……自分だけは、まだ手放したくないと思っていたものを、そっとここに置いていくために」
マスターの声は、とても静かで、優しかった。私の心の奥にある“忘れたくない”という小さなワガママを、否定することなく、ただ静かに包んでくれる。
私の記憶は──いったい、どんなものだったのだろう。思い出したくないほどに、大切で。なのに、手放さなければならないほどに、終わってしまった何か。
矛盾した気持ちが胸の奥で絡まり合って、思わず、小さく笑ってしまった。
「……押しつけがましい言い方になるかもしれませんが、どうか、一つだけ聞いてください」
マスターの顔は、モヤに包まれ相変わらずぼやけて見える。けれど、静かに、ゆっくりとしたその声には──確かな想いが宿っていた。
「貴女の記憶は、決して消えてしまうわけではありません。ここ──『記憶の喫茶店』に、そっと置いていくだけなのです。だから……どうか、私に引き継がせてください。貴女の──大切な記憶を」
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