最後の記憶-三話-
病室に響く騒がしさで目が覚める。
ゆっくり瞼を開けると、白衣の医者とナースたち、そして寝間着姿の両親が立っていた。
カーテンの向こうは真っ暗で、壁の時計は二十三時を少し過ぎていた。本来なら家で過ごしているはずの両親が、こんな時間にここにいる。その異質さに疑問を抱き、思わず君を探してしまう。夏の実習はきつい──そう電話口でぼやいていた君を。
エアコンの冷気が気怠い暑さを消す代わりに、先生と両親の声を遠ざける。微睡む頭で耳を澄ませると──ドナー、サイン。そんな単語だけが浮かび上がってくる。
「先生!患者さんが──」
ナースの一人が私に気付き、声を上げた。その瞬間、病室の視線が一斉に集まる。寝起きのぼんやりとした思考が、その圧に無理やり引き戻される。
無理やり覚醒させられた頭で親の顔を見れば、光に照らされた涙が滲んでいた。病状が悪化したのか──嫌な汗が背を伝い、寝起きの身体を冷たく不快にする。
白衣の先生が、大股でベッド脇まで歩いてくる。
「先にご両親には説明させて頂いたのですが──」
いつも冷静な先生が、息を荒らし、急ぎ足の口調で話す。その姿に不安が募る。
「落ち着いて聞いて下さい。先程──移植候補の臓器が見つかりました」
「ぞう、き……?」
両親が涙を浮かべて私の手を握る。理解できない私に、母は『よかったね!』と泣きながら繰り返す。
父親が先生と会話をしながら、何かの紙にペンを走らせている。
病室は人の出入りで慌ただしくなる。採血、検温……気付けば私はストレッチャーに横たえられていた。
「第二手術室に──」
「──はい。動きますからね」
寝かされたまま、天井の光が流れていく。身体は右に左に揺れ、進行方向も分からない。ただ“運ばれていく感覚”だけが残る。
そんな私に、ストレッチャー横を並走している年配のナースが声をかけてくれた。
「大丈夫ですからね。ドナーが見つかって、後は手術するだけですから。担当医の先生、おじいちゃんだけど移植の腕だけは凄いんだから」
「あ、はい……」
ナースの言葉が、頭の中で何度もこだまのように響く。ドナー、手術、移植──ばらばらだった単語が繋がり、霧に覆われていた思考が徐々に形を取り始める。
恐る恐る、声を掛けてくれたナースに問いかける。
「私の……病気が治るってことですか?」
私の問いに、一瞬呆けたように瞬きを繰り返したナースの顔が、次の瞬間には満面の笑みに変わる。
「そうよ!すぐ歩けるように……は、リハビリしてからだけど。そんなの、すぐに良くなって歩けるようになるんだから!」
ナースとの会話の余韻のまま、気付けば手術室の中へ。テレビでしか見たことのない器具が並び、口元に麻酔マスクが押し当てられる。意識はゆっくりと遠ざかっていく。
天井から吊るされた一際眩しいライトが、視界の奥へと遠ざかっていく。
「──さん。もう、大丈夫ですからね。目が覚めたら、全部終わってますから」
先ほどまで病室にいた白衣の先生が、今は青い服をまとい私の脇に立っている。その声は驚くほど優しく、安心に包まれたまま瞼がすとんと閉じていった。
途切れゆく意識の中で、元気になったら君と水族館デートに行きたい──そんな未来を思い描き、気付けば口元に笑みが浮かんでいた気がする。
──一ヶ月後。
学生の頃から筋肉がつきにくかった私は、いま“リハビリ”という名の苦行に心が挫けそうになっていた。
最後に自分の足で歩いたのは六、七年前。衰えきった足は体を支えきれず、手すりにすがって立つ自分の姿は、鏡の中でまるで生まれたての小鹿のように映っていた。
「せ、先生……もう無理。見てよ、この足。今日は終わりにしようって訴えてるから」
「まだ冗談が言えるみたいだし……少し休憩したら、また頑張ろっか」
リハビリを手伝ってくれる先生の笑顔に、小さな悲鳴で応える。冗談を交わしつつ、私は今日も汗を流しながら歩く練習を続けた。
予定では、二ヶ月後に実習を終える君。もう一ヵ月以上連絡も取れないほど忙しいその君に、立ち上がった私を見せたい。これまで足を引っ張ってきた分、今度は私が君の肩を支えたいから。
ただ──今は、そんな強い意志を少しだけ捨てて近くの椅子へと座り込む。
「はぁ……はぁ。ちょっと、休憩……」
きっと、健康な人から見れば大した時間ではないのだろう。けれど、長いベッド生活で筋肉も体力も底を突いている私には重い。よろめく足を奮い立たせ、テーブルの方へと歩く。
目的のテーブルへ席に着き、事前に用意してあったペンへと手を伸ばす。
「手紙こそ、休憩してから書けばいいのに」
「ちょっと、見ないで下さいよ!」
“拝啓”だけが書かれた便箋を慌てて隠す。
淡い黄色の封筒と、縁を小花で彩られた便箋。何十セットも用意したそれらを、私は大事に抱えていた。
「これは、命の恩人への手紙なんですから。先生が盗み見しないでください!」
私に心臓を託してくれた人。本当は、その人の家族に直接お礼を言いたかった。もしかしたら、本人の意思とはいえ、その家族には恨みつらみをぶつけられるかもしれない。それでも、一言“ありがとう”と伝えたかった。
しかし、個人を特定できる情報は一切もらえず、代わりに『日本臓器移植ネットワーク』とやらが仲介人として手紙を渡してくれると聞いた。
私の情報は書けない決まり。だからこの手紙は匿名で、感謝の気持ちや今の歩行の状態、これからの夢を綴っていく。そんな一方的な手紙を、私はもう何通も送っている。
「書き終わったら、声かけてね。その人のためにも、早く歩けるようにならないとね」
「分かってますよーだ」
今日はどんなことを書こうか。あれもこれもと浮かんでくる取り留めのない話題をかき集め、ペンを走らせる。
どれくらい時間が経っただろう。便箋の端まで、びっしり埋められた私の字を見て、どこかおかしな所はないだろうかと、読み返していた。そのとき、後ろから声を掛けられる。
振り向くと、そこには君の両親が立っていた。
「おじさん!おばさん!」
昔から家ぐるみで付き合いがあり、私を娘のように接してくれた二人。
病気に挫けそうな時も、両親や君、そして君のご両親が何度も足を運び、気を紛らわせてくれた。二人は、私にとってすでにかけがえのない存在。
そんな二人がどこか疲れ切った表情をしていて、私は思わず問いかける。
「何か、悩み事ですか?もし私にできることなら言ってくださいね。今の私は、あいつより力になれますよ」
もう、私は元気だよ──という意味を込めて、二人に笑いかける。
けれど、おばさんはどこか悲しそうに。おじさんは気まずそうに、私から視線を逸らした。
二人の様子に胸の奥で違和感が膨らむ。私に何ができるだろう──そう考えた時、おじさんが小さく言葉を漏らした。
「その手紙は……」
おじさんの視線の先──そこには、テーブルに置かれた私の手紙があった。
気心知れた相手とはいえ、やはり手紙を見られるのは恥ずかしいもので、慌てて隠す。
「あはは……これ、私の命の恩人──心臓をくれた人の家族宛ての手紙なんです」
「……命の恩人」
持っていたペンを、目的もなく手の中で転がす。照れや恥ずかしさ、いろんな感情をごまかすように。
そんな私の仕草に目もくれず、おじさんは「そうか──」と小さくこぼしている。
「もっと……それこそ、リハビリが終わったら伝えようと思っていたんだが」
おじさんが突然、重い声音で話し出す。その肩をおばさんが引くが、彼は首を振って拒む。
決意を帯びたおじさんの表情は、“お前の足になるから──”と言ってくれた君にそっくりだった。あぁ、やっぱり親子なんだな……と、場違いな感想が胸をよぎる。
おじさんは、ゆっくりと、言葉の続きを告げる。
「実はな。あいつは──」
その言葉を聞いた瞬間、指先から力が抜け、ペンが落ちた。廊下の子供の声も、院内放送の音楽も、一斉に消え失せる。耳に残ったのは、床に当たる鈍い音だけ。
手術が無事終わり、泣くことはもう卒業したはずなのに。私を襲う、喪失の感情によって頬を伝う涙は止まらなかった──。




