最後の記憶-二話-
「これ、この前の写真」
病室の窓辺から匂う、金木犀の香り。
大学生になってもまだ背が伸び、筋肉もつき始めた君に驚かされる。そんな君から受け取った写真には、花畑を背に車椅子に座り、君へピースをする私が写っていた。
「へぇ。私、可愛いじゃん」
「それ、自分でいう事か?」
君の呆れ声を無視し、ベッド脇からフォトファイルを取り出して、一枚ずつ丁寧にめくっていく。
電車を乗り継いで遠くへ出かけた日、海辺の夕日を撮った日──ページをめくるごとに、車椅子の私が増えていく。最近は歩くだけで息が荒れる。申し訳なさと情けなさを胸に、私は君に車椅子を押してもらい、いろいろな場所へ出かけている。
君が約束してくれたように、君が私の“足”として色々な所に連れていってくれた。
「最近、どう?大学の勉強、難しくなってきたってこの前言ってたけど?」
「まぁ……ぼちぼちかな」
君がそう言う時は、決まってテストの点数が良い時。その良く分からない自己評価に、思わず笑い、胸の奥で小さく安堵する。私に付き合わせて、君の人生の足を引っ張っているのでは──そんな考えが頭をかすめ、自分が少し嫌になる。
そんな私の内心など知らぬ君は、笑ってガイドブックを開き見せつけてくる。
「雪が降り始める前にさ、今度はここ行こうかなって思うんだけど。どうかな?」
「うーん、私もそろそろ試験が近いからなぁ」
そう言いながら、英検一級の本を得意げに掲げて見せつけた。
病室での生活は暇を極める。病気になんて挫けないと決意した私は、次々と資格取得に挑み始めていた。
「半年前は、漢検の一級取ってなかった……?」
「英語取ったら、次はTOEICで高得点目指してるから」
そんな私のドヤ顔に笑う君。その笑いに合わせ、弱い心を隠しながら私も笑った。こんな時間がずっと続けばいいのにと願いながら。
最近は、勉強をしていても集中が続かず。ペン先が指から滑り落ちる日が増えていった。そんな夜は決まって、枕が涙で冷えきっている。
病気は確実に身体を蝕んでいく。それでも、震える指先を隠すように布団を握りしめ、弱った姿を家族にも君にも見せたくなかった。
「TOEICかぁ……じゃあ、次は丁度一年後とかになるかな」
「あぁ、そっか。病院研修、だっけ?」
志望校に受かった、と嬉しそうに報告して来た四年前の君。そのとき初めて知った。君の選んだ学部は“医学部”だと。医学部だと初めて聞いたとき、胸の奥がひやりとした。私のせいで、君の夢を変えてしまったのではないか、と。
けれど、その問いを口にする勇気はなく、布団の下で手を強く握りしめた。
「五年になったら、まずは四ヶ月の研修があるから……その間、見舞いも来れないと思う」
君は申し訳なさそうに視線を落とした。
その仕草に胸がちくりと痛む。私のせいで君に、負担を強いさせている気がして──そんな考えを喉の奥で飲み込む。
「大丈夫だって!じゃあ、その間にTOEICで八百点以上取って自慢しちゃおうかな」
君の進路は本当にそれでいいの?──なんて聞けず、胸を張る仕草で誤魔化しながら視線を逸らす。
逸らした視線の先には、色々な色のガーベラが生けられた花瓶が置かれていた。
──『常に前進』っていう花言葉らしいんだ!君らしいだろ。
そんな言葉と共に、見舞いには珍しい花束を持って病室に入って来た君を思い出す。
花言葉なんて君らしくないと思いつつ、その切羽詰まった表情を見て察した。きっと私の病状を親から聞かされたのだろう、と。
明日死ぬ、とか来年まで持たないとか、そんな具合ではないけれど。けれど、この身体に潜む病は、ゆっくりと確実に私の身体を死へ近づけている。
どんなに気丈に振る舞っても、医者にはお見通しで。つまり、親にもすべて筒抜けなわけで。
「……ねぇ」
「どうした?」
君の人生を、私はどれほど狂わせてしまったのだろうか。強気な態度も、心臓の弱まりとともに次第に保てなくなっていった。
そんな私を見るたび、君は隠しきれないほど悲しそうな顔をした。その顔を見るたび、私は無理にでも自分を奮い立たせた。
「他にも、花言葉、教えてね」
君が来る前に飲んだ薬が効きはじめ、瞼が閉じ始める。
最近は、長く話すだけで疲れてしまう。だから事前に薬を飲んで時間に限りをつける──そうでもしないと、私は何時間でも君と話してしまうから。
「あぁ……教えるよ。でも、今はおやすみ」
「うん。おやすみ」
ゆっくりと目を閉じる。
私のその姿を見て、ベッド脇で小さな物音がし、少し後にドアが静かに閉まる。
外から子供の笑い声や時計の秒針の音が届く。心電図の機械音だけが、うるさいほど響く静かな病室。
「こんな私を“好き”って言ってくれてありがとう……でも、私は“愛してる”だから、私の勝ちだね──」
そんな、ここにいない君に向けた小さな呟きが、静寂に包まれた病室に消えていく。




