最後の記憶-一話-
拡張型心筋症。
それが、私の人生を狂わせた者の名前。
高校二年の春、体育の時間。胸を鋭い痛みが突き抜け、呼吸が途切れる。次の瞬間、意識も途切れていた。次に目を覚ました時には、私は病室のベッドの上で目元を腫らしている家族に囲まれていた。
家族の後ろに、白衣の老人が立っていた。彼の低い声が、重苦しい病室に落とされ、難しい言葉が並ぶなか、わずかに理解出来る内容を拾っていく。血がうまく送れない?車いすになる?そんな言葉よりも──「命に関わる」という最後の一言だけが、胸の奥に杭のように刺さった。
「病状が進行すると……最悪、命に関わることがあります」
医者の声が部屋の壁に淡く溶けていった。心臓の移植──その言葉だけが、重たく、私の胸に留まった。心電図のピッという細い音が、部屋の中に響く。
風邪薬すら人任せの私にもわかってしまう。心臓の移植が、どれほど希少で、どれほど遠い希望なのか。
家族が去り、院内の消灯時間が訪れた一人っきりの病室。気丈に振舞っていた私は、誰に聞かれる訳でもないのに、顔を枕に沈め、声が漏れないように泣いた。自分の泣き声すら、自分の心を削ってしまう気がしたから。
枕が涙で冷えていく。
翌日。
美味しくもない病院食を終えた午後。面会の時刻になるや、病室のドアが乱暴に開いた。
そこに立っていたのは幼稚園から付き合いのある幼馴染。普段は落ち着いていて、何事にも動じない君が、肩で息をし、額から汗を垂らしている。
運動より勉強が得意で、マラソンではいつも最後尾だった君。そんな君が汗だくで立っているのが可笑しくて、思わず笑った。その笑いに合わせて咳がこぼれる。
「だ、大丈夫か!?」
ベッドの脇へ駆け寄った君の手が、背中に添えられる。君の手が背中に載ったとき、その温度に私は思わず目を閉じた。暖かかった。薬でも、言葉でもない、ただそれだけの温度が、ひどく効いた。
背中をさすられ、徐々に落ち着いていく。
ふと、昨日からお風呂に入っていないことを思い出し、慌てて君を押しのけた。
「も、もう大丈夫だから!それより、学校はどうしたの」
「学校は……早退した」
ばつが悪そうに顔を俯かせる君。
真面目な君が学校を休み、肩で息をしながらここまで走ってきた。その姿を見ていると、とても責められなかった。
「ごめん……心配かけたよね」
「身体は、大丈夫なのか?」
君は視線を泳がせながら、恐る恐る問いかけてきた。
その問いに、私はすぐに“大丈夫”とは言えず。重い沈黙が、静かな病室に広がる。その沈黙が答えだと理解した君は、握り締めた手を小さく震えさせていた。
そんな君を放っておけず、深呼吸をしてからゆっくり声を掛けた。
「大丈夫だよ。今日、明日で何かが変わるわけじゃないから」
自分で放った言葉が、自分にも向けられる。
そうだ、いつ来るか分からない未来を怖がっても仕方ない。もしかしたら、すぐに移植ができるかもしれない──そんな考えがよぎる。
そんな荒唐無稽な希望を抱いて、私は言葉を続ける。乾いた笑いが喉に引っかかる。
「運動は出来なくなるかも、とは言われたけど。高校は通ってもいいのかな?どう思う?」
そんな言葉が出てしまう私は、きっと自分でも気づかぬうちに現実逃避をしていたのだろう。心電図の音だけが鳴り響く静かな病室に、その言葉が静かに溶けていく。
無意識に吐いた言葉が、徐々に自分の中に戻ってくる。戻ってきた言葉が心を締め付け、視界が滲む。
滲む視界が、気丈な心すらぼやかしていく。言葉をつっかえながら、縋るような言葉を君に向ける。
「学校、もう行けない、のかなぁ」
親の前でも堪えていた涙が、君の前で自然と流れていく。一度流れた涙は、もう自分では止めることすらできなくて。
頬を伝い、布団を濡らしていく。自分の手で、何度拭おうとこぼれ続けていく。
感情を制御できない悔しさと、自分の身体への憎しみが込み上げるほど、涙は止まらず増えていった。
そんな私を見て、君は笑顔で言葉をかけてくる。
「学校なんて行けなくても、俺が──」
いつもどこか達観していて、無表情な君。その君が今は、照れを隠しきれずに赤くなっていた。真剣な顔をして、一生懸命言葉を探しながら、ゆっくりと言葉を紡いでくれる。
「俺が、お前の足になる。どこにだって連れていく。だから──」
震える声を聞きながら、涙に滲む視界でその顔を焼き付けた。握りしめた拳の震えを見て、胸の奥の何かがほどけていく。たどたどしく話す姿が嬉しくて──気づけば涙も止まっていた。
病室の時計が一秒だけ大きく鳴った気がした。
心電図の音と、彼の荒い呼吸──そして喉の震えだけが、うるさいほど響いていた。頬の涙を拭うはずだった指先は、気づけば彼の肩に触れていた。
胸に溜まっていたものが決壊して、身体が勝手に前へ。ベッドから乗り出し、唇が触れた瞬間、音がすべて遠ざかり、世界が一瞬だけ静まった。
「へへ……私の涙でしょっぱいね」
午後の眩しい日差しに照らされた君の顔は驚きに満ちていた。普段は見られないその表情に、悲しさが吹き飛び、どこか誇らしい気持ちが込み上げてくる。
私は、そのままベッドの背もたれに寄りかかり天井を見つめながら呟く。
「まぁ……友達に会えなくなるのは嫌だけど。勉強は病室でも出来るしね」
元々、運動は好きな方じゃないし──と心の中で笑う。
医者の『病状が進行すると……最悪、命に関わることがあります』という言葉。それが少し先なのか遠い未来の話なのか、それは分からない。だが、いつ来るとも知れぬ不安に怯えるのは自分らしくない。
なにより──未だに驚き、戸惑いの表情が抜けない君がいるから。そう思うと、自然と笑みがこぼれていく。
「君はいつまで呆けてるのさ。私のファーストキスだったんだけど?感想は?」
「か、感想?……なんか、カサカサだった」
ふざけた事を言い出す君に、背中にあるクッション代わりの枕を投げつける。
突然投げられた枕を、顔面でまともに受けた君を見て笑う。涙を拭いながら窓の外へ目をやると、この部屋から桜が見えることに今さら気づいた。枝には二羽の雀が並んでいて、それを眺めながら小さく決意を固める。
「立ち止まるなんて、私らしくないもんね。まずは、何からしようかな──」
私の呟きに不思議そうな顔をする君を見て、大きくため息をついた。さっきまでの頼もしさは、いったいどこへ消えたのか。
こっちだって、無意識ながら照れと言うものを抱えているのだが。
「君は、まずは女心を学ぶ所から……いや、それよりさっさと返事してよね」
私はこの日、慌てふためく君の姿を笑いながら、病気と向き合う決意を心にした。
本日は、12時頃に続きを投稿予定です。
よろしくお願いします。




