マーガレット-信頼と愛を奏でて-(下)
駅前のアーケードは、シャッターが下り始め夜の色を濃くしていた。閉店間際の通りを足早な人波が抜けていく。その流れに逆らって、私は黒いケースを背負ったまま歩みを進める。
肩で息を整える。四月まであと数週間だというのに、吐き出した白い息はすぐに夜気へと溶けていく。
そのとき、視界の先に楽器屋の灯りが差した。十年ぶりに胸の奥でざわめきが跳ね上がり、気づけば歩幅は自然と速まっていた。
「いらっしゃいませー」
店員の声を背に、店内を進む。
暖かい空気が冷えた頬を和らげ、首元からマフラーを外す。視線を巡らせると、鍵盤が並ぶ一角、きらめく管楽器の棚、整然と並ぶ楽譜──それらを抜けて、ようやく目的の棚が見えてきた。
数十種類の弦が視界を埋め尽くし、指先は宙でためらう。すると、記憶の中の親友の声がよみがえった。
──初心者なら、これが無難。ほら、安いし。
迷っていた指先が、その銘柄で止まる。少し包装は変わっていたけれど、確かにあの頃と同じ弦だった。思わず口元が緩み、懐かしさが込み上げて笑いがこぼれる。
目的の弦を抱えるようにして、レジへと歩く。
「──クレジットで」
会計を終え、温もりの残る店内から一歩外へ出る。頬を刺す冷気に、思わず肩がすくむ。
レジ袋の中で、新しい弦がかさりと鳴る。その音と重さは、指先が確かに憶えている感覚だった。
吐いた白い息が夜気に散っていく。その揺らぎを見た瞬間、胸の奥に眠っていた景色がよみがえる。──卒業式の日、最後にまた空き教室で弾こう、と交わした約束。
果たされぬまま途切れ、私がギターを置いた日の記憶。
***
私は空き教室で彼女を待っていた。
卒業式を終えた校舎には余韻が残り、廊下からは笑い声やシャッター音が響いていた。そのざわめきに混ざることもなく、二人で机を寄せてギターを並べたこの場所で、ひとり椅子に座っていた。
『またな』
卒業式の前日も、放課後はいつも通り二人で空き教室にいた。日が落ち、校門の前で交わしたその言葉を信じて、今日もここで彼女を待つ。
別れ際に彼女が見せた笑顔と、そのひとことを何度も思い返す。
背中のケースを下ろし、弦にそっと触れる。落ち着かない指先を、なんとか押さえ込むように。校庭から届く笑い声も歓声も、すべては扉が開く合図なのではないかと思えてならなかった。
けれど──待ち続けても扉は開かない。胸のどこかで分かっていた。卒業式に、彼女の姿はなかったのだから。
『海外でさ……弾きたいんだ』
文化祭の打ち上げで、ふとこぼれた親友の言葉。すぐに「何でもない」と笑い消したけれど、それが本心だったことくらい、今は分かる。
視線の先はいつも遠く、私と一緒に弾いていても、その瞳はどこか別の景色を映していたのだろう。それでも──文化祭で見せたあの笑顔を、最後まで信じていたかった。
「卒業式ぐらい……出ればいいのに」
夕陽に染まっていた教室は、やがて長い影に飲み込まれていく。電気もつけず、暗闇に包まれた教室に残されたのは、私の呼吸と、膝の上のギターの重みだけだった。
最後に窓の外を見たとき、クラスメイトたちが花束を抱えて写真を撮っているのが見えた。その景色が滲んでいくのを、私はただ立ち尽くして見送った。
──そして、その日を境に、彼女との連絡は途絶えた。
***
その後、上京した私は、弾くこともないのに黒いケースを持ち込み、クローゼットの奥へ押し込んだ。それきり二度と開けることはなかった。十年経った今でも、あの教室の冷たい静けさだけは、胸に深く残り続けている。
それなのに──気づけば再びケースを背負い、替えの弦を買っていた。初めてギターを触った日のような高揚が胸を満たし、今すぐ音を鳴らしたくてたまらない。足は自然と、マンション近くの小さな公園へ向かっていた。
ブランコと滑り台がひとつ。街灯に照らされたベンチがひとつ。十年前、彼女と初めて弦を張り替えたのも、こんな公園のベンチだった。記憶をなぞるように、その場所へと歩みを重ねていく。
誰もいないベンチに腰を下ろし、レジ袋から弦を取り出す。一本、また一本と張り替えていく。新品の金属の匂いが夜気の中に混ざり、指先に空気とは違う冷たさを伝えてくる。
最後の弦を張り終え、チューニングを試みる。記憶を頼りに回したペグは、音をわずかに外してしまう。
「……全然、覚えてないや」
こぼれた声は夜気に溶け、木々のざわめきにあっけなくかき消された。
懐かしい重さに、懐かしい肌触り。けれど、チューニングの方法だけは思い出せない。ネットで検索すれば何かヒントがあるだろうか──そう諦めかけた、その瞬間。
「──チューニング、やってあげようか」
背後から響いた声に、全身が硬直する。
あまりにも懐かしい声。十年前、あの空き教室で待っても聞けなかった声。幻聴だと何度も心で否定するのに、指先の震えは止められなかった。
砂を踏む靴音が背後から近づき、街灯の明かりに細い影が伸びていく。息を呑み、振り返ったその先に──彼女が、親友が立っていた。
少し大人びていて、それでもその声は記憶のままで。不器用で、確かに十年前の彼女そのままの表情だった。
「……相変わらず、チューニングは苦手なんだな」
苦笑まじりにそう言うと、彼女は迷いなく私の隣に腰を下ろした。
震える手からギターを受け取り、細い指先が迷いなくペグを回す。その動きは昔と変わらず無駄がなく、美しかった。
鳴らされた音は夜気に透き通り、静けさの中へ広がっていく。
「ほら、できたよ」
差し出されたギターを受け取ると、手のひらにじんわり熱が宿る。十年分の空白を、ほんの数秒の音が埋めていく気がした。
「……どうして、ここにいるのよ」
声が震えていた。胸の奥に押し込めていた思いが、ついに言葉になって零れ落ちる。
「なんで……あの時、来てくれなかったの」
隣に座る彼女は、一度だけ夜空を仰ぎ、白い息を吐き出す。ためらうように視線を戻し、少し照れくさそうに口を開いた。
「……あんたのお母さんに、住所を聞いたんだよ。ほら、あのとき文化祭の写真、あんたのお母さんに送ったろ」
口元にはかすかな笑み。それでも瞳の奥には、誤魔化しのない真剣さが宿っていた。
「それと──あの日、声をかけてもらった海外の音楽学校から『便を一本早められないか』ってメールが来て。卒業式に出たら、もう間に合わなかった。だから……あの時のことは、全部手紙に書いたつもり。ちゃんと届いてたでしょ?十年前に書いた、私の手紙」
ピンク色の封筒と、読みかけのまま閉じた便箋が、頭に鮮やかに浮かんだ。何が書かれているのか分からず、不安で閉じてしまった手紙。
震える指でそれを取り出し、視線を落としたまま言葉をこぼす。
「ごめん……まだ、全部は読んでない」
そう答えると、彼女はふっと口元を緩める。
「なら、続き読んでよ。あんたとの約束破ったのだけ、心残りだったんだから。読んだら……また一緒に弾こう。今度は……逃げないからさ」
親友の澄んだ声が、夜空に静かに溶けていく。
十年前に果たせなかった約束が、ようやくここから始まる気がして、私は彼女から受け取ったギターを胸に抱きしめた。
彼女も背負っていたケースを開け、そっとギターを取り出す。
あの日の空き教室ではない。けれど今、街灯に照らされた公園のベンチで、肩を並べて構えることができた。
身体が憶えていた合図──弦の上で二度だけ指を鳴らす。親友が頷き、三度目を音に変える。そして静かな夜の公園に、二人の音色が寄り添うように広がっていった。
【信頼】:親友
【真実の愛】:友愛




