マーガレット-信頼と愛を奏でて-(中)
「文化祭に出てみない!?」
窓の外では、蝉の声が一斉に鳴き始めていた。夏の空気がじんわりと教室に入り込み、汗ばむ腕にまとわりつく。
放課後の空き教室に響くのは、私と彼女のギターの音。初めて彼女の音色を聞いた日から、気づけば三ヶ月が経っていた。
答案用紙に書かれた赤点ぎりぎりの点数を見て、眉をしかめる彼女を助けたこともあったし、私が指をつりそうになって机に突っ伏したこともあった。そんな小さな出来事を重ねるうちに、彼女の横は、いつの間にか私の特等席になっていた。
「文化祭?」
「そう!文化祭の個人発表タイム、あるじゃん」
夏休み前の最後の砦──期末テスト勉強でしんと静まり返った放課後の教室。耳に届くのは、窓の外から聞こえる蝉の声だけだった。
けれど、その言葉を口にした途端、胸の奥が熱を帯びた。机の下で足先が小さく弾んで、隠しきれない気持ちが自分でも可笑しくなる。
「そこで、私達もエントリーしてみようよ!」
私の提案に、彼女は片眉をひそめて問題集へ視線を戻す。あまりに素っ気ない態度に、思わず机に身を乗り出して肩をつついた。
「ねーねー!夏休みの間、二人で練習してさ!」
「あー!うっざい!……お前がこの曲をちゃんと弾けるようになったら考えてやるよ」
そう言いながら、彼女はリュックを乱暴にあさり、一枚の楽譜を引っ張り出した。少し折れた角、走り書きのコード──それは、初めて出会った日に彼女が弾いてくれた曲だった。
目で追った瞬間に、紙面に散ったコードの難しさが容赦なく突き刺さる。三ヶ月の練習で読めるようになったからこそ、その険しさがはっきりと分かった。喉の奥がひゅっと鳴り、指先がこわばる。
それでも──“高校最後の夏”を彼女と並んで過ごしたい。無謀でも、その気持ちひとつだけを頼りに、私は深く息を吸い、楽譜を握りしめた。
「分かった!約束だからね!」
「……はぁ。あぁ、約束だ」
逃げ腰の彼女の手を強引につかみ、小指を絡めた。
「何すんだよ」
「約束げんまん。知らない?」
「そうじゃなくて……ガキかよ」
悪態を無視して、指先に力をこめる。
その指は、初めて触れたときと同じように細くて、綺麗だった。その感触を逃さないように、ぎゅっと力を込める。
子どもじみた仕草なのに、胸の奥では火花みたいにぱちりと弾けて──それが強い決意へと変わった。
「約束、したからね!」
「……曲の練習なんかより、受験の勉強はいいのかよ」
珍しく私を気づかう声音に、思わず笑みが漏れた。“指定校”という最強の手札をひらつかせると、彼女は大げさに溜息を吐く。
勝ち誇るようににやりと返し、楽譜を開く。そこには苦手なコードがびっしりと並んでいる。コードは読めても、指先はまだ形を覚えていない。にらみつけるようにページを追い、ゆっくりとギターを構える。
一節。また一節。
もつれる指が、それでも音を紡ぎ出す。かすれた和音が教室に転がっていった。
「……私の勉強見てくれるんじゃねぇのかよ」
「いいけど……あ!代わりに、ここのコード教えて!」
そんなやり取りをしていた七月上旬。
問題集とにらめっこする彼女の隣で、私はギターの弦に指を絡ませて悪戦苦闘していた。
期末テストが終わっても、その光景は変わらない。彼女の前に置かれるのが問題集から楽譜に変わっただけで──私のぎこちない演奏の隣には、いつも彼女がいた。
「まぁ……あと、半年だけだしな」
その小さな呟きには、どこか名残惜しさが滲んでいたけれど、弦に必死だった私は気づきもしなかった。
***
「次、私達の番だよ!」
「はぁ……あんな約束、しなきゃよかった」
前のグループに拍手が送られ、司会の声が続く。幕が下ろされ、セッティングのざわめきが広がる舞台袖。小声で愚痴をこぼす彼女の腕を、私はぐっと引いた。
一歩、また一歩。
照明の落ちた体育館の奥で、舞台だけが白く浮かんでいる。その光に近づくたび、胸の奥で心臓が跳ね、掌にじわりと汗がにじむ。
高揚と不安に揺れながら、私は彼女を連れて舞台へ踏み出した。
「ほら、準備しに行くよ!」
「分かったから……手、放してくれ」
しぶしぶ手を離すと、彼女はまっすぐ前を見据えた。舞台まであと数歩。照明の光が届いた瞬間、彼女の顔から倦怠の影は消え去り、真っすぐな眼差しだけが浮かび上がる。
空き教室では決して見せなかった横顔。その輝きに触れた瞬間、胸の奥で小さな火がぱちりと灯り、思わず笑みがこぼれた。
「そんな顔、できるんだね」
「……馬鹿にしてんのか?」
「そうじゃないって!ただ……あんまり“本気!”って感じ出さないからさ。私のレベルが低いからかなぁ、とか思ってたからさ」
自分でも分かるほど、声が震えていた。アンプのケーブルをつなぐ指先まで小さく揺れて、抑えていた気持ちがぽろりと零れ落ちる。
その瞬間、彼女の手がぴたりと止まった。驚いたように向けられた視線に射抜かれ、頬が一気に熱を帯びる。それに耐えきれず、私は慌てて俯いた。
「ほ、ほら。準備しよ──」
「──お前と弾くのは、楽なんだよ。……勘違いさせたなら悪かった」
普段は多くを語らない彼女が、こんなにも言葉を重ねてくれる。その響きに、胸の奥がじんと熱を帯び、呼吸が浅くなる。
気づけば頬が緩み、その勢いのまま彼女に飛びついていた。華奢な肩なのに、抱きついた私をしっかりと受け止めてくれる。口では文句ばかり言うくせに、結局こうして支えてくれるところが──彼女らしくて、込み上げる笑いを抑えられなかった。
「お、おい!やめろ、暑苦しい!」
「やめないよーだ!」
舞台袖から覗く視線なんてどうでもよかった。腕に力を込め、彼女をぎゅっと抱きしめる。胸の奥で風船が膨らむみたいに、嬉しさと幸せが溢れていく。
戸惑い混じりの視線がすぐ横から突き刺さるのを感じながらも、私はどうしても言葉を探してしまった。
「私達、今から親友だからね!」
「いいから、離れろ!」
そんなやり取りをしていると、司会の声が響き、慌てて支度を整える。
やがて幕が上がる。光の向こうに広がるざわめきを前に、二人で肩を並べて立つ。人前で弾くのは初めてなのに、胸の高鳴りは不思議と静まっていく。隣にいる彼女──いや、親友の存在が、背中をそっと押してくれていた。
「頑張ろうね!」
「練習通りに弾きゃーいいんだよ」
そう言う彼女の顔は、いつも以上に楽しそうだった。
幕が上がり、歓声が一斉に飛ぶ。押し寄せる熱気が全身を包み込む。震える指先を誤魔化すように弦を鳴らすと、体育館がさらに沸き立つ。
私が弦の上で二度だけ指を鳴らす。彼女が頷き、二人で三度目を音に変える──それが二人の合図。途中で指が滑ったけれど、それも歓声に溶けていく。
最後の音が空気に溶けていき、思った以上に肩で息をしていた私と親友。顔を見合わせて、同じように笑った。
あのときの演奏は、眩しいほど楽しくて、心を跳ねさせて──もう一度、と願ったほどだった。けれど、あれが最初で最後になるとは、当時の私は思ってすらいなかった。




