喫茶店-第一輪-
「──これが、“あの人”の記憶……」
花瓶に刺さっている、一輪の花──赤い彼岸花。恐る恐る触れていた手を、ゆっくりと離す。花に触れた瞬間、頭の中に流れてきた記憶。それは切なくて、でも、どこか暖かくて。
顔を上げると、古風な内装をした喫茶店内。カウンターの内側には、マグカップを棚にしまっているマスターの後ろ姿。
私とマスター以外、誰もいない店内。外は“真っ暗”で、どこまでも闇が続いている。
「それが、その方が最後まで残していたかった記憶です」
私に背を向けたまま、マスターが私に語り掛ける。その声は、優しく、落ち着く声。
しかし、こちらを振り向くマスターの顔は──モヤがかかっている。この世の人間とは思えない風貌。
「いや……この世じゃないんだっけ……」
自分で思ったことに、自嘲を返す。
顔にモヤがかかったマスター。店内の外は、どこまでも続く闇。その中で、唯一の温もりを感じさせるこの店内。そんなファンタジーのような空間。
マスターの作業風景をぼーっと見つめながら、ここに来た時のことを思い出す。暗闇が続く道を、ずっとずっと歩いて来た時のことを──。
何も思い出せない。自分が誰なのか。なぜ、暗闇を歩いているのか。上も、下も、右も、左も──すべてが闇。足裏に伝わる地面の感触だけが、かろうじて私の正気を保っている。
怖い。心細い。私は誰、ここはどこ──弱った心が今にも叫び出しそうだ。泣きたくてたまらない。
それでも──なぜか、私の足は止まらない。闇の中を、ただ、ゆっくりと前へ。
どれほど歩いただろうか。ふと、目を閉じ──そして、顔を上げた。その一瞬に、それは現れた。
「お店……?」
ずっと暗闇だったはず。後ろも前もあるのは闇だけだった。にも関わらず、突然現れた光。温もりさえ感じるその光に、思わず手を伸ばしていた。木目調の外壁が印象的な、二階建ての建物。外開き戸の取っ手を掴みドアを開ける。
──チリン。
「いらっしゃませ」
鈴の音に重なるように、声が響いた。思わずそちらを振り向く。薄灰のシャツに黒のベスト──その人物は、カウンターの奥で静かにマグカップを拭いていた。ただ、その店員が『彼』なのか『彼女』なのかが分からない。顔にだけ軽い靄が掛かっている。声は男性にも聞こえるけれど、それも曖昧だった。
得体の知れない相手なのに、不思議と居心地の良さを感じる。なぜだろう──初めて会うはずなのに。
私が入り口で立ち尽くしているのが気になったのか。彼は、手にしていたカップをそっと置いて、カウンターの外へ出てくる。そして、私の方へと歩み寄ってきた。
「どうかされましたか?体調でも?」
「あ……えっと」
喉の奥から押し出した言葉は、ひどく頼りなくて、まるで自分の声じゃないみたいだった。
質問が、頭の中でぐるぐると回る。ここはどこ? 外の闇は? あなたは誰?でも、言葉にならなかった。声が詰まって、うまく出てこない。
自分の反応が恥ずかしくて、思わず俯いてしまう。顔が熱い。だけど、下を向いたからきっと気づかれていない……そう思いたかった。
「もしよければカウンターの方にどうぞ」
俯く私に向けて、彼は静かに手を差し出した。恐る恐る顔を上げると、モヤのかかったその顔が、微かに笑っているように見えた。
差し出された手に、そっと触れる。案内されるまま席に着く。彼は再びカウンターの中へ戻り、棚から新しいマグカップをひとつ取り出した。
「ミルク多めのカフェオレでいいですか?」
「あ、はい」
まるで、私がそう答えると知っていたかのように、彼は迷いなく動き始める。カップを温め、ミルクを注ぎ、コーヒーを合わせていく。その手つきはまるで儀式のようで、思わず息を飲んだ。
ふと我に返ると、カウンターの上にカフェオレが置かれていた。両手でマグカップを支え、ゆっくりと口を付ける。外の暗闇が寒かったわけじゃない。しかし、その温かいカフェオレは私の身体を芯から温めてくれた気がした。
「──美味しい」
「それは良かった」
苦いのは、どちらかといえば苦手だった。そんな私の舌にも心地よい、ちょうど良いミルクの加減。どこか懐かしさすら感じる味だった。
マグカップをそっと置く。ようやく、心にも少しだけ余裕が戻ってきた気がして、私は店内を見渡した。
外は相変わらず闇が続いているが、店内は明るく、優しい温もりを感じる。珈琲の少し苦味のある香りや、まるで、皮をむいたばかりの熟れた桃のような、甘く柔らかな匂い。
居心地の良さはある。けれど、それでも外の闇が気になってしまう。そもそも、ここはどこなのか。私は誰なのか。その疑問がふと頭をかすめた瞬間、せっかく落ち着いていた心がざわつき始めた。
「大丈夫ですよ」
ふいに、彼の声が静かに届く。驚くほど、優しい声。
根拠なんて、どこにもない。けれど私は、迷わずその声を信じていた。どこか安心するその言葉。
「ここは……どこなんですか?」
少し間を置いて、彼は静かに答えた。
「ここは──来世へと向かう途中にある、ほんのひとときの寄り道のような場所です」
思わず、言葉を失ってしまった。優しさに包まれた声だったのに、それが逆に不安を呼び起こす。
私の怪訝な表情を見て、彼は小さく笑う。拭き終えたマグカップを棚に戻すため、静かに背を向ける。そのまま、言葉を続けた。
「前世で一番大切だった思い出──それだけを持って、ここへ来るんです。楽しかったこと。後悔とともにあるけれど、どうしても捨てられない記憶。大事な人との、最後の時間。私は彼らの思い出を『花』として受け取り、代わりに引き継ぐ」
「……引き継ぐ?」
「はい。彼らが大切にしていた記憶──来世には持っていけない、かけがえのないものを」
来世への道。大事な思い出。荒唐無稽な話のはずなのに──なぜか、否定できなかった。
けれど──もし、彼の言うことが本当だとしたら。気になるのは、私には何の記憶もないこと。みんなが思い出を持ってここへ来るなら、私の人生には……何ひとつ残らなかったということになるのだろうか。
「私には……何もありません。大事な思い出も。大事な人の顔も。何も思い出せない。それって……私の人生は──」
「貴女を愛した人がいた」
「え?」
気づけば、彼は私の方を向いていた。私の言葉を遮るように、強く、はっきりと言う。見えないはずのその顔が──どこか、悲しそうに見えた。
彼の顔に、私はそっと触れようとしていた。
「──っ!……すみません」
彼は少し驚いたように目を見開き──謝った。何に対してかは分からない。でも、私の手を振り払わず佇んでいた。そんな彼がどこか愛おしく、ほっとけない気がした。
「『ありがとう』って言うんです。こういうときは」
「そう、ですね」
そう言って彼は笑う。顔は見えないままなのに──確かに、そう感じた。
深く息を吸い込む音が、静まり返った店内に小さく響いた。それが、彼の調子を整えるためのものだと──なんとなく、そう思った。
彼を見つめていたその視界の端に──何か"赤い"ものが、目に留まった。座っているカウンターの端。目を向けると、それは花瓶に入った一輪の花だった。あの花、なんて名前だっただろう。喉の奥まで出かかっているのに、どうしても思い出せない。もどかしくなって、思わず彼の方へと視線を向けた。
「リコリスです」
気がつけば、彼はすっかり元の穏やかな声に戻っていた。やさしい声。でも、その答えは──私が求めていたものじゃなかった。
リコリス、そう呼ばれる花。たぶん、それが正しいんだろう。でも、違う。私のどこかが叫んでる──その名前じゃないって。記憶がないはずなのに、もう一人の私がそう叫ぶ。あの花の名前は──。
「──彼岸花」
その名前は、まるで口が覚えていたかのように出てきた。懐かしく感じるその響き。
「はい。そちらの名前の方が一般的かもしれませんね」
名前はわかった。それなのに──”赤い彼岸花”を見つめていると、胸の奥に妙なざわめきが残る。
(──彼岸花、って……赤かったっけ?)
そんな疑問が一瞬、頭をよぎった。けれどすぐに、根拠のないものだと思い直す。記憶もないのに、何を考えているんだろう。
そんな私のざわめきに気付かず彼は言葉を続ける。
「ヒガンバナ科ヒガンバナ属で9月頃に花を咲かせます。『リコリス』は学名ですね。花も、葉も、茎も、球根も──すべてに毒があって、取り扱いには注意が必要です。そして──」
彼の説明を聞きながら思う。先ほど彼が言っていた『花』のことを。
──私は彼らの思い出を『花』として受け取る。
この花も、誰かの思い出なのだろうか。最後まで手放せなかった、大切な記憶。
「花言葉は──情熱と諦め」