喫茶店-第十二輪-
オレンジ色の空に、いわし雲が浮かんでいる。
その下で、私は海辺で立っていた。頬を撫でる風がリボンを揺らし、隣の“あの人”のネクタイが大きくはためく。
──学生の頃だったのだろうか。けれど、顔が霞んで思い出せない。
気づけば、世界がふっと塗り替わる。
黄色い花に囲まれて、笑顔の“あの人”がカメラを構えている。私はピースを向けて笑い返す。
視線を落とすと、視点の低さが車椅子のせいだと気付く。そうだった、私はこの場所に、あの人に連れられて来たのだった。
次の瞬間、冷たい光に包まれた病室。
薬品の匂い。真っ白な天井。
そして、ベッドに座る私のもとへ花束を抱えてやって来る“あの人”。花瓶に花を挿すその背中を、私はじっと見つめていた。
ふいに立ち上がった彼の手が、私の頭へ伸びてきて──。
──気づけば、私は天を仰いでいた。煙突から上る煙が空へと昇っていく。“立って”いる感覚が、少し不思議だった。けれどそのまま、私はその煙に手を伸ばす。触れたい、と思った。
次の瞬間、ピンク色の便箋を抱きしめた私はどこかの部屋で泣いていた。
悲しさと、温かさと、愛しさと──名前のつかない感情が、波のように押し寄せては引いていく。
***
すべての記憶が、走馬灯のように胸の奥を駆け抜けていった。
でも──どうしても、思い出せない。あの人の“顔”だけが、記憶の中から抜け落ちたままだった。
「全て、思い出せましたか?」
テーブル越しに座るマスターの声が、静かな店内に優しく響く。
けれどその問いに、私は小さく首を振った。
あらゆる場面に“あの人”はいた。なのに、いつもその顔は霞がかっていて、まるで私の心が“思い出すこと”を拒んでいるかのようだった。
──忘れたくなんか、ないのに。
そう願えば願うほど、胸の奥がきゅうっと締め付けられる。声にならない想いが、喉の奥で揺れていた。
「大事な……私の、大事な人のことだけが、どうしても思い出せないんです。それ以外は、断片的でも少しずつ思い出せてきたのに……」
思わず、テーブルの上で拳を握りしめる。
その言葉に、マスターは一拍の沈黙ののち、小さく頷いた。
「……そう、ですか」
その声は、ひどく悲しげで、どこか遠くへと消えてしまいそうだった。
店内には、時計の針が刻む「カチ、カチ……」という音だけが淡々と響いている。その静寂が胸にのしかかり、思わず私は立ち上がった。
感情を整理したいというより、息をする空間を変えたかった。
マスターが、ゆっくりと私を見上げる。
「でも!もう少しなんです!あと少しで……マスターに“私の記憶、いいでしょ!”って言えそうなんです!」
胸に込み上げる想いを力に変えて、私は精一杯の声を張る。
そんな私を見て、マスターが声を上げて笑った。いつもの静かな微笑とは違う、驚くほど朗らかな笑い声だった。
「……マスター?」
あまりにも意外で、私は思わずその名前を呼ぶ。
けれど、そこにいたのは心から嬉しそうに、目元を綻ばせて──まるで、何かをずっと待ち続けていた人のように。
「貴女がやる気に満ちてるのに、店主の私が沈んでも仕方がないですね」
そう言って、チューリップの鉢を持ち上げカウンターへと向かっていく。
その背中は、まっすぐに伸びていた。どこか、誇らしげで、堂々としていて──頼もしささえ感じ、思わず目を細める。
どうしてだろう。こんなにも懐かしい気持ちになるのは。胸の奥が、ふわりとあたたかくなるような感覚に包まれた。
店内に、マスターの足音が規則正しく響く。コツ、コツ──と、まるで花に向かう儀式のような静けさ。
やがて、コトン──と鉢を置く音がして、マスターが再び新たな花を手に取った。
「こちらを、どうぞ」
マスターが、私の前のテーブルに鉢植えをそっと置く。
白い花びらに包まれた中央には、黄色の雄しべと雌しべがちょこんと並んでいる。
「……あっ、これ。私、この花で花占いした記憶、あります!」
思わず声に出してしまった。
──昔。いや、さっき思い出した記憶のどこかに、あった気がする。一枚ずつ花びらをちぎりながら、「好き、嫌い、好き、嫌い……」と呟いていた、幼い日の自分。その姿は、なんだか可笑しくて、どこか愛おしい。
でも──名前は知っていても、花言葉までは思い出せない。
私はマスターへと目を向ける。いつものように、優しい声で教えてくれるはずだと、少しだけ期待を込めて。
「もしかしたら、これが最後かもしれませんね」
マスターは、少しだけ寂しそうに、それでも穏やかに微笑んで言った。
──確かに、これで最後かもしれない。
マスターの花知識も、優しさも、温かさも。この喫茶店の空気も、声も、光も。すべてが、まるで夢だったかのように消えてしまうかもしれない。
けれど、私は──その夢を覚ます時が来たのだ。この場所に甘えていてはいけない。思い出すために来たのだから。
後ろ髪を引かれながらも、私は静かに首を横に振った。もう一度だけ、心の中で繰り返す。
──最後でいい。
これを最後にして、私は思い出すのだ。私の、大事な人を。
「この花の名はマーガレット。花占いで使用されることで有名ですね。そんなこの花の花言葉は『信頼』、そして──」
あぁ、これで最後か。絶対とは言えないけれど、心のどこかがそう叫んでいる気がする。
目を覚ましたら、暗闇にひとり。記憶がないまま彷徨って……気づけば、喫茶店の前に立っていた。
そして、店内でマスターが出迎えてくれた。訳が分からないまま座ったカウンター。花の話。思い出の話。そして、ここは「記憶を失くした人が最後に訪れる場所」だなんて──どこか夢物語のような話を、当たり前のように教えてくれた。
あれから、どれくらいの時間が経ったのだろう。
思い出した記憶の数と同じくらい、マスターのモヤに隠れたままの、でも想像できてしまう表情もたくさん覚えている
──それでも、やっぱり。
もう、終わりが近いのだ。
“さよなら”なんて、言いたくない。けれど、いつまでもここにいるわけにもいかない。きっとマスターなら、私がそう思っていることも、全部お見通しだろう。
そんな風に考えてしまう自分が、なんだか少し恥ずかしい。でも──この気持ちは、ほんとうだ。
「──『真実の愛』。これがマーガレットの花言葉です」
マスターの優しい言葉に、背中をそっと押される。私は手を伸ばす。
マーガレットに込められた、誰かの大切な記憶へ。
それを通して──自分の記憶にも、そっと触れてみようと思った。“あの人”のことを、思い出すために。
心の奥にずっと隠してきた、私のいちばん大事な記憶に、もう一度──ちゃんと、向き合うために。──今なら、きっと。
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