喫茶店-第十輪-
赤い、真っ赤な葉が目の前で揺れている。
ポインセチア。
その花を通した記憶は、綺麗な雪が舞う中、静かに終わっていた。
決して、何か劇的なことが起きたわけじゃない。今までのどの記憶も、どれもが平凡で、静かで──そして、温かい。
「……ごめんなさい」
自然と口から出た言葉。
俯いて視線を、正面に座るマスターへ恐る恐る向ける。そこには、いつもと変わらない、柔らかな雰囲気を纏った姿があった。表情は、相変わらずモヤがかかり見えないけれど。
「他の方の大切な記憶を……道具として、見てるつもりはなかったんです」
今、口ではそう言うが、私の言動は確かに“道具”として扱おうとしていた。
ぐちゃぐちゃにになった感情から逃げるために。向き合いたくない現実から目を逸らすために。
そんな私の、心の奥の醜い感情をマスターに見られたのが恥ずかしくて。ただただ、申し訳なくて。
「貴女の記憶……思い出したいですか?たとえ、最後に置いていくと分かっていても」
マスターがゆっくりと問いかける。
今ならハッキリと言える。胸を張って、目を逸らさず言い切れる。
「はい。思い出したいです。最後に、忘れると分かっていても。何より、ちゃんと思い出して言いたいんです──“私の記憶、いいでしょ”って」
笑って答える。
もう迷わない。もう、よそ見はしない。
忘れてしまった記憶を、置いてきてしまった大切な人の事を。私だけの大事な記憶。それを、喫茶店に置いていくためにも思い出す。
「『私の心は燃えている』」
「え?」
「この花──ポインセチアの花言葉です」
マスターが静かに語りだす。もう、何度目かも分からない。
花を、記憶を大切にしているマスターから語られる、想いの籠った語り。
「花そのものより、この真っ赤な葉が印象的ですね。花言葉は『聖夜』と『私の心は燃えている』。今の貴女のように、前を向き自分の足で歩き出す方に相応しい言葉かと思います」
優しく、微笑んでくれた気がした。温かく心に沁みていく。
マスターを正面から見つめる。そこには、先ほどまであった“惹かれる”感情はない。あるのは“感謝”という感情。そして──。
「あの……私と、友達になってくれませんか?」
マスターへ、右手を差し出す。
きっと、喫茶店を出るときは全ての記憶を置いていくのだろう。私の記憶も、マスターの温もりも。
「私のことも、忘れてしまいますよ?」
「はい、分かっています」
それでも、短い間だと分かっていても──。
「もう、私の中で、マスターも十分──大切な人だから。この気持ちも、置いて行かせてください」
「大切……ですか」
「はい!」
私の言葉を聞き、珍しく口ごもるマスター。
席を立ち、私の正面に座っていたマスターの横に移動する。微動だにしないマスターの右手を強引に持ち上げ、自分の右手で掴む。
「これで、友達です!」
「強引ですね」
「いいんです!きっと、こっちが“私”な気もするんです」
「ふふっ。そうですか……そんな貴女に、私も応えないとですかね」
そう言って、テーブルの上にあるポインセチアを持って立ち上がるマスター。
その背を見送る。
少しして、マスターは違う花を持って戻ってくる。
「私の役目は、貴女の記憶を探す手伝いをすること。ですので、次はコレを」
そう言って差し出された花は、枝に咲く小さな花。まばらに咲く白色の、可愛い花達。
その花は、とても有名で、誰でも知っている。
「梅、ですね」
「はい」
梅を見ると、春が近いな──なんて思った記憶がある。
そんな、取り戻した記憶の、懐かしい記憶に心を寄せていると、マスターが口を開く。
「この花は、多くを語る必要はないですね。一月から三月頃にかけて花を付けます。また、六月頃には梅の実が。若い実は、毒性があったりしますが、梅酒や梅干しなどの食用として知られていますね」
この、マスターの優しい語りを聞ける回数はあとどれ位なのだろう。
そう思うと、この語りすら掛け替えのない物に感じてくる。
「そんな梅の花言葉は、寒さに耐えながら咲くことから『忍耐』。そして、そんな凛とした美しい姿から『高潔』」
小さいながらも、凛とした小さな花。その花へと手を伸ばす。
こうやって、誰かの記憶を見ることすら後何回なのか。
そんな小さな寂しさを抱えながら、それでも──と、自分の記憶を、大切な人を思い出すために。
「……やっぱり、貴女は、変わらないですね」
微笑んだような声色。だけど、それはどこか寂しげで、愛おしげで。
顔を上げようとした瞬間、視界が滲む。記憶が──思い出が、私を包み込んでいく。
一瞬、誰かが私を呼ぶ声がした。懐かしくて、温かくて。
見たことのない風景なのに、知っている気がした。白く霞んだ視界の中で、誰かが手を伸ばしてくれる。
触れた指先から、優しい風が吹き込んだ。梅の、優しい香りと共に。差し出されたその手に、私は、確かに見覚えがあった──。
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