表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/38

タイサンボク-前途洋洋で壮麗な一日の終わりに-

 人気のない校舎。屋上へと続く階段は、その静けさをいっそう際立たせていた。

 上履きがコツ、コツと響くたびに、音は空っぽの空間に吸い込まれていくようで──どこか、時間まで止まったような錯覚に陥る。


 階段を上りきると、目の前に現れる灰色の扉。アルミ製だろうか、少し冷たい感触が手のひらに残る。ドアノブを回すと、拍子抜けするほどすんなりと扉は開いた。

 その瞬間、外から冷たい風が吹き込んできた。

 四月まで、あと一ヶ月。春にはまだ遠いこの風は、頬に触れると確かに冷たい──けれど、階段を駆け上がってきた今の私には、不思議と心地よく感じられた。


 風に吹かれ、そっと閉じていた目を開ける。

 扉の先に広がっていたのは、茜色に染まった空だった。ゆるやかに浮かぶ雲が、夕陽の光を飲み込みながら、オレンジ色へと変わっていく。

 意識して夕日を見たことなんて、あまりなかった。けれど今は──ただ、その景色に圧倒されて、言葉を忘れて立ち尽くしてしまう。

 反射的にポケットへと手を伸ばす。スマホに指が触れた、その瞬間。


「おーい。そんな所にいないで、こっちおいでよ」


 屋上のフェンス近く。椅子に座って、こっちに手を振る人影。わざわざ椅子まで持ち込んだのだろう。

 美術部でずっとお世話になってきた──いや、ほんの数時間前まで“先輩”だった人が、そこにいた。


「卒業式、終わったのに……どうしてまだ学校にいるんですか?」


 昼頃には終わっていた、先輩の卒業式。出席を許されていたのは卒業生とその保護者だけ。

 それでも、どうしても一言だけ、直接お礼が言いたかった。

 だから──”式が終わったら、少しだけ時間をもらえませんか”と、昼過ぎにメッセージを送った。

 返信が届いたのは、1時間前。式の終了予定時刻から、4時間が過ぎた頃だった。


「今日で最後だからさ。屋上で描かせてくださいって、お願いしたんだよね」


 笑いながら、少し照れたように頭を掻く先輩。

 ──こっちは、あのメッセージの画面を何度も開いて、何度も閉じて、ずっと待っていたというのに。そんな小さな悪態を飲み込んで。静かに先輩の後ろに立つ。

 目の前に置かれていたキャンバスには、屋上から見た街並みが描かれていた。丁寧で、色鮮やかで、どこか懐かしささえ感じる風景。

 けれど、その上に広がるはずの”空”だけが、ぽっかりと抜け落ちている


「空……描かないんですか?」

「今ね、色を作ってたんだ」


 そう言いながら、先輩がこちらにバレットを傾けて見せてくる。そこには、いくつもの"赤"が広がっていた。朱色、茜色、そして悩んだ末に混ぜたのか、ほんのり紫がかった色もある。

 一番広く塗られたその色が、きっと”答え”なのだろう。そう思った時にはもう、先輩の手が筆を取り、その色を静かに筆先へ染み込ませていた。


「最後の……この夕日を描きたかったんだ」


 ぽつりと零したその言葉を最後に、先輩はふたたび、絵の中へと入り込んでいく。

 外でも、美術室でも。一人でも、隣に私がいても。”ここを描きたい”と思った瞬間の先輩は、まるで他の世界にいるみたいに、周囲の音なんて一切届かなくなる。


 ──絵に、本気な人。


 私は、その横顔を少し後ろから見つめる。

 筆の動きに合わせて、キャンバスに茜色の空がゆっくりと描き加えられていく。

 それはいつもの光景。でも、この”いつも”が続くのは、あとほんの少しだけ。

 絵が完成するのが、楽しみで。でも、それと同時に怖くて。筆が進むたびに、まるで砂時計の砂が落ちていくように、終わりの時が近づいてくるのを感じてしまう。

 それでも──私は、先輩の描く絵が好きだから。胸の奥に沈んでいく物悲しさを押し隠して、静かにその空を見つめ続けた。


「──できた」


 それは、40分ほど経った頃だった。屋上に、先輩の静かな声が響く。

 三月の夕方は、本当に一瞬で過ぎていく。辺りはすっかり薄暗くなり、空ももう、さっきの茜色ではなく、山の向こうへ沈んだ太陽の名残で、紫がかった色に変わっていた。


「先輩、お疲れ様です」


 私の声が届くと、先輩はほんの少しだけ頷いた気がした。

 辺りの暗さとは違い、目の前のキャンバスだけは違う。そこには、ほんの少し前まで私たちの頭上に広がっていた、あの茜色の空が、大きく、力強く描かれている。

 見た瞬間、胸を掴まれたように息が止まった。綺麗で、温かくて、切なくて──でも、それ以上に、どうしようもなく”終わり”を感じさせる絵だった。

 そして私は気づく。

 この絵を、こうして見るのも──きっと、今日で最後なんだって。


「さてと。片付けたら、帰ろっか」


 そう言って、先輩がキャンバスや絵の具を手早くまとめ始める。その姿は、これまで何度も見てきたものだった。放課後の美術室で、黙々と道具を片付けていた後ろ姿──その、いつもの光景が、今日はどうしようもなく遠く感じる。


「美大、でしたよね?」


 自然に出たはずの言葉に、自分の声が少しだけ震えていた気がした。


「そうそう。これからは、もっと絵に集中できそうで……今から楽しみなんだよね」


 先輩の声は、いつも通り明るくて、迷いがなくて。それがきっと、良いことなんだ。応援するべきなんだ。

 でも──”集中できそう”って、私は今まで、邪魔だったのかな。

 そんな捻くれた気持ちが、喉の奥までせり上がってくる。

 でも、それを言ってしまえば、きっと全部が壊れてしまいそうで。だから私は、何も言わず、口を閉ざした。


 先輩は黙々と片付けを終え、絵も道具もすべて鞄に収めると、ゆっくりと立ち上がり、こちらを振り返る。


「お待たせ。帰ろっか」


 あたりは、すっかり夜に包まれていた。

 空を見上げれば、星がひっそりと瞬いている。けれど、月は細く痩せていて、ほとんど光をくれない。その空は、何も語りかけてはこなかった。

 私はそっと視線を落とし、隣に立つ先輩の横顔を見つめる。


「先輩って……夕方が好きなんですか?」


 特に意味のある言葉じゃなかった。ただ、会話を終わらせたくなかった。それだけだった。

 でも、言葉にしてみて、ようやく思い出す。そういえば──先輩の描く絵って、いつも夕方の空が背景だったなって。


「あー……好きって言うか……励まされるっていうのかな」


 少しだけ間を置いて、先輩がぽつりと答える。


「雲のない、一面オレンジの夕焼け。──そういう日はね、次の日、晴れるんだよ」


 そう言って笑う先輩は、どこか照れくさそうで。


「受験、正直大変だった。そもそもさ……進路、これでよかったのかって、何度も思ったよ」


 その言葉を聞いた瞬間、美術室で筆を止めていた先輩の姿が、ふと浮かんだ。いつも楽しそうに描いていたはずの人が、静かに苦しそうに黙り込んでいた日。

 進路なんて、まだ深く考えたこともなかった私は、ただ隣に座って、一言も言えなかった。

 あの時の沈黙が、今でも胸に残ってる。結局、私にできたのは”そばにいること”だけだった。


「受験が終わったら終わったで、また別の問題が出てきてさ。進学したら本当にやっていけるのかとか、ちゃんと絵と向き合えるのかとか……そういうのも全部、夕日を見てると不思議と整理できる気がしてたんだよね」


 そう話す先輩は、どこか遠くを見るような目をしていた。

 自分でも気づかないうちに、肩の力が抜けていたのかもしれない。


「──何か悩みがあるなら、話聞きますよ?」


 気づけば、自然と口から出ていた。

 ”最後だから”とか、”思い出を作りたい”とか。そんな下心がなかったとは言えない。それでも私は、本気でそう思っていた。


「今日で最後の『お悩み相談室』ですから」


 照れ隠しのように、そんな変な名前をつけて笑ってみせる。

 先輩は、その言葉にふっと笑ってくれた。それだけで、少しだけ報われた気がした。


「じゃあ……聞いてもらおうかな。部活の、ある女の後輩がさ──もう、可愛くて仕方ないって相談なんだけど」


 そう言って、先輩はいつもの調子で笑いながら歩き出す。

 荷物を肩にかけ、校舎へと戻っていくその背中は、どこまでも自然で、どこまでもいつも通りで──でも、ほんの少しだけ、今日だけの特別が混ざっていた。


(……え?美術部に、女の子なんて他に──いたっけ?)


 一拍、間を置いてからようやくその意味に気づいて、ぶわっと顔が熱くなる。心臓が跳ねたみたいに、胸の奥がざわめいた。

 それはたぶん。あのキャンバスに描かれていた夕焼けよりもずっと濃い、真っ赤な色だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
きゃーーーーー! ………… 『タイサンボク-前途洋洋で壮麗な一日の終わりに-』、読ませていただきました。 個人的にこういう終わり方だいすきです。 両想いは確定してて、選択肢の多い"その後の展開"を読者…
夕空を紫で表すのは良いですね〜。 美術部としても、そういう絵は描きたくなるでしょうし。 お悩み相談内容が割とガチ相談でしたw さて、OKするのでしょうか。 (´・ω・`)
ちよっと、結末は? 君が可愛いって遠回しに言っといて、この終わり方って… 俺達の戦いはこれからだ、的な非常に気になる終わり方なんですけどぉ、リア充爆発しろ(笑)
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ