タイサンボク-前途洋洋で壮麗な一日の終わりに-
人気のない校舎。屋上へと続く階段は、その静けさをいっそう際立たせていた。
上履きがコツ、コツと響くたびに、音は空っぽの空間に吸い込まれていくようで──どこか、時間まで止まったような錯覚に陥る。
階段を上りきると、目の前に現れる灰色の扉。アルミ製だろうか、少し冷たい感触が手のひらに残る。ドアノブを回すと、拍子抜けするほどすんなりと扉は開いた。
その瞬間、外から冷たい風が吹き込んできた。
四月まで、あと一ヶ月。春にはまだ遠いこの風は、頬に触れると確かに冷たい──けれど、階段を駆け上がってきた今の私には、不思議と心地よく感じられた。
風に吹かれ、そっと閉じていた目を開ける。
扉の先に広がっていたのは、茜色に染まった空だった。ゆるやかに浮かぶ雲が、夕陽の光を飲み込みながら、オレンジ色へと変わっていく。
意識して夕日を見たことなんて、あまりなかった。けれど今は──ただ、その景色に圧倒されて、言葉を忘れて立ち尽くしてしまう。
反射的にポケットへと手を伸ばす。スマホに指が触れた、その瞬間。
「おーい。そんな所にいないで、こっちおいでよ」
屋上のフェンス近く。椅子に座って、こっちに手を振る人影。わざわざ椅子まで持ち込んだのだろう。
美術部でずっとお世話になってきた──いや、ほんの数時間前まで“先輩”だった人が、そこにいた。
「卒業式、終わったのに……どうしてまだ学校にいるんですか?」
昼頃には終わっていた、先輩の卒業式。出席を許されていたのは卒業生とその保護者だけ。
それでも、どうしても一言だけ、直接お礼が言いたかった。
だから──”式が終わったら、少しだけ時間をもらえませんか”と、昼過ぎにメッセージを送った。
返信が届いたのは、1時間前。式の終了予定時刻から、4時間が過ぎた頃だった。
「今日で最後だからさ。屋上で描かせてくださいって、お願いしたんだよね」
笑いながら、少し照れたように頭を掻く先輩。
──こっちは、あのメッセージの画面を何度も開いて、何度も閉じて、ずっと待っていたというのに。そんな小さな悪態を飲み込んで。静かに先輩の後ろに立つ。
目の前に置かれていたキャンバスには、屋上から見た街並みが描かれていた。丁寧で、色鮮やかで、どこか懐かしささえ感じる風景。
けれど、その上に広がるはずの”空”だけが、ぽっかりと抜け落ちている
「空……描かないんですか?」
「今ね、色を作ってたんだ」
そう言いながら、先輩がこちらにバレットを傾けて見せてくる。そこには、いくつもの"赤"が広がっていた。朱色、茜色、そして悩んだ末に混ぜたのか、ほんのり紫がかった色もある。
一番広く塗られたその色が、きっと”答え”なのだろう。そう思った時にはもう、先輩の手が筆を取り、その色を静かに筆先へ染み込ませていた。
「最後の……この夕日を描きたかったんだ」
ぽつりと零したその言葉を最後に、先輩はふたたび、絵の中へと入り込んでいく。
外でも、美術室でも。一人でも、隣に私がいても。”ここを描きたい”と思った瞬間の先輩は、まるで他の世界にいるみたいに、周囲の音なんて一切届かなくなる。
──絵に、本気な人。
私は、その横顔を少し後ろから見つめる。
筆の動きに合わせて、キャンバスに茜色の空がゆっくりと描き加えられていく。
それはいつもの光景。でも、この”いつも”が続くのは、あとほんの少しだけ。
絵が完成するのが、楽しみで。でも、それと同時に怖くて。筆が進むたびに、まるで砂時計の砂が落ちていくように、終わりの時が近づいてくるのを感じてしまう。
それでも──私は、先輩の描く絵が好きだから。胸の奥に沈んでいく物悲しさを押し隠して、静かにその空を見つめ続けた。
「──できた」
それは、40分ほど経った頃だった。屋上に、先輩の静かな声が響く。
三月の夕方は、本当に一瞬で過ぎていく。辺りはすっかり薄暗くなり、空ももう、さっきの茜色ではなく、山の向こうへ沈んだ太陽の名残で、紫がかった色に変わっていた。
「先輩、お疲れ様です」
私の声が届くと、先輩はほんの少しだけ頷いた気がした。
辺りの暗さとは違い、目の前のキャンバスだけは違う。そこには、ほんの少し前まで私たちの頭上に広がっていた、あの茜色の空が、大きく、力強く描かれている。
見た瞬間、胸を掴まれたように息が止まった。綺麗で、温かくて、切なくて──でも、それ以上に、どうしようもなく”終わり”を感じさせる絵だった。
そして私は気づく。
この絵を、こうして見るのも──きっと、今日で最後なんだって。
「さてと。片付けたら、帰ろっか」
そう言って、先輩がキャンバスや絵の具を手早くまとめ始める。その姿は、これまで何度も見てきたものだった。放課後の美術室で、黙々と道具を片付けていた後ろ姿──その、いつもの光景が、今日はどうしようもなく遠く感じる。
「美大、でしたよね?」
自然に出たはずの言葉に、自分の声が少しだけ震えていた気がした。
「そうそう。これからは、もっと絵に集中できそうで……今から楽しみなんだよね」
先輩の声は、いつも通り明るくて、迷いがなくて。それがきっと、良いことなんだ。応援するべきなんだ。
でも──”集中できそう”って、私は今まで、邪魔だったのかな。
そんな捻くれた気持ちが、喉の奥までせり上がってくる。
でも、それを言ってしまえば、きっと全部が壊れてしまいそうで。だから私は、何も言わず、口を閉ざした。
先輩は黙々と片付けを終え、絵も道具もすべて鞄に収めると、ゆっくりと立ち上がり、こちらを振り返る。
「お待たせ。帰ろっか」
あたりは、すっかり夜に包まれていた。
空を見上げれば、星がひっそりと瞬いている。けれど、月は細く痩せていて、ほとんど光をくれない。その空は、何も語りかけてはこなかった。
私はそっと視線を落とし、隣に立つ先輩の横顔を見つめる。
「先輩って……夕方が好きなんですか?」
特に意味のある言葉じゃなかった。ただ、会話を終わらせたくなかった。それだけだった。
でも、言葉にしてみて、ようやく思い出す。そういえば──先輩の描く絵って、いつも夕方の空が背景だったなって。
「あー……好きって言うか……励まされるっていうのかな」
少しだけ間を置いて、先輩がぽつりと答える。
「雲のない、一面オレンジの夕焼け。──そういう日はね、次の日、晴れるんだよ」
そう言って笑う先輩は、どこか照れくさそうで。
「受験、正直大変だった。そもそもさ……進路、これでよかったのかって、何度も思ったよ」
その言葉を聞いた瞬間、美術室で筆を止めていた先輩の姿が、ふと浮かんだ。いつも楽しそうに描いていたはずの人が、静かに苦しそうに黙り込んでいた日。
進路なんて、まだ深く考えたこともなかった私は、ただ隣に座って、一言も言えなかった。
あの時の沈黙が、今でも胸に残ってる。結局、私にできたのは”そばにいること”だけだった。
「受験が終わったら終わったで、また別の問題が出てきてさ。進学したら本当にやっていけるのかとか、ちゃんと絵と向き合えるのかとか……そういうのも全部、夕日を見てると不思議と整理できる気がしてたんだよね」
そう話す先輩は、どこか遠くを見るような目をしていた。
自分でも気づかないうちに、肩の力が抜けていたのかもしれない。
「──何か悩みがあるなら、話聞きますよ?」
気づけば、自然と口から出ていた。
”最後だから”とか、”思い出を作りたい”とか。そんな下心がなかったとは言えない。それでも私は、本気でそう思っていた。
「今日で最後の『お悩み相談室』ですから」
照れ隠しのように、そんな変な名前をつけて笑ってみせる。
先輩は、その言葉にふっと笑ってくれた。それだけで、少しだけ報われた気がした。
「じゃあ……聞いてもらおうかな。部活の、ある女の後輩がさ──もう、可愛くて仕方ないって相談なんだけど」
そう言って、先輩はいつもの調子で笑いながら歩き出す。
荷物を肩にかけ、校舎へと戻っていくその背中は、どこまでも自然で、どこまでもいつも通りで──でも、ほんの少しだけ、今日だけの特別が混ざっていた。
(……え?美術部に、女の子なんて他に──いたっけ?)
一拍、間を置いてからようやくその意味に気づいて、ぶわっと顔が熱くなる。心臓が跳ねたみたいに、胸の奥がざわめいた。
それはたぶん。あのキャンバスに描かれていた夕焼けよりもずっと濃い、真っ赤な色だった。




