喫茶店-第七輪-
「何か、思い出せましたか?」
不意に声を掛けられ、記憶の海から意識がふっと引き戻される。それに合わせて、金木犀の甘い香りが身体を抜けていった。
想いを抱きながらも、すれ違いで距離ができかけていた二人。けれど最後には、言葉を交わし、心を確かめ合えた。その記憶に触れていた私は、まるで澄みきった空を見上げたときのような、穏やかな気持ちに包まれていく。
「いえ、何も……でも、今は、この記憶に触れていたいから。私の記憶は、今はいいんです」
「そうですか。それは、良いことですね」
「はい!本当に、よかった」
マスターの声は、相変わらず穏やかであたたかかった。
記憶を思い出すためにこの場所にいるはずなのに、今、こうして立ち止まっている私を肯定してくれる。”味方がいる”って、こんなにも心をふわっと包んでくれるものなんだ──そんなこと、今まで考えたこともなかった。
マスターは、金木犀が入った花瓶をカウンターへと運んでいく。今まで見せてもらった記憶たちが静かに並ぶその場所に、新しい記憶として金木犀がそっと加わる。
ふと、その並びから少しだけ外れた位置に置かれている、ひときわ大きな白い花に視線が吸い寄せられた。金木犀の前に、マスターが私のために持ってきてくれていた花。
大きくて、美しい白い花──なのに、その名前だけがどうしても思い出せなかった。
「あの、その花……」
「あぁ、これですか」
花瓶の並びを整えていたマスターが、私の声に気づいて、静かに振り返る。
マスターは自分の作業を中断し、私が指さした白い花を丁寧に持ち上げて、そっと目の前に差し出してくれた。その花は、金木犀とはまた違う甘さを纏っていた。
甘い匂い……というより、もっと深くて、まるで息に溶け込むような、柔らかな香り。うまく言葉にできず、語彙力のなさに軽く項垂れる
「どうかされましたか?」
「あ、いえ!それより、この花は……初めて見た気がします」
間近で見ると、その花の存在感がより際立つ。ふわりと咲いた白い花は、私の手の平ほどもあって。
初めて見る。けれど、どこか知りたくなる。知らないはずの花に惹かれて、私は自然とマスターの言葉を待っていた。
「この花はですね”タイサンボク”と言います」
「タイサンボク……」
口にしてみても、舌の上にうまく乗らない、不思議な響き。
名前も花の姿も、どこかで見たような、まったく知らないような──そんな曖昧さが胸の奥をくすぐる。
「ふふ。きっと、初めて見ると思いますよ」
思い出そうとしていたのがバレたのか、マスターが優しく笑ってそう言った。その声が、少しだけ嬉しそうに聞こえたのは──気のせいだろうか。
「花屋などでは、おそらくあまり見かけない花ですね。この花がなる木は、成長すると20メートルにもなるそうです」
「20メートル……って、どのくらいですか?」
私より頭一つ大きいマスターでも、2メートルもないはず。そう考えると、まるでピンとこない。
「そうですね……マンションの6階分くらい、でしょうか」
「……あ、それなら何となく」
少し微妙な空気が流れるけれど──マスターが咳払いをして、話を続けてくれた。
「タイサンボクはですね、見ての通り。大きな花を付けます。大きいもので25センチほど。……貴女の靴と同じくらいですね」
言われて、そっと足元に目をやる。白くて、動きやすそうな靴。それが、まるで“誰かに選んでもらった”みたいに感じて──いけない。また、余計なことを考えそうになる。小さく首を振って、目の前のマスターへ意識を戻した。
「白い花弁が、3枚ずつ3輪につきます。この大きな立派な花をイメージして、花言葉は『壮麗』。そして、大きく育つ様から『前途洋々』──『前途多難』の逆をいく、希望に満ちた言葉ですね」
「……前途洋々」
口にしてみると、ほんの少しだけ背筋が伸びた気がした
覚えていない私の未来。何も思い出せないけれど──きっと幸せな記憶が待っていると、そんなふうに思えた。そんな気持ちが胸に灯って、私はそっと手を伸ばした。
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