金木犀-真実の愛と初恋に揺られて-(下)
携帯が鳴りやまない。暗闇が支配する自室の中、携帯の明るさだけが目に刺さる。
画面に映るのは、あの人の名前。
ベッドの上で膝を抱え、鳴り続ける携帯をぼんやりと見つめていた。
やがて呼び出し音は止まり、静寂が戻る──かと思えば、すぐにメッセージの通知が続けざまに届く。
──私、何かしちゃったかな?
──『助けて』って言ったら、また来てくれる?
そんなメッセージが画面に表示される。
いつもは、こちらをからかうような文面ばかりなのに。それが、今日はまるで、機嫌を伺うようなメッセージ。
画面に映ったままの2件のメッセージ。指一本触れないまま眺めていると、携帯は静かに光を失う。唯一の光が消え、再び暗闇が部屋を支配する。
どのくらいそうしていただろうか。ふいに、画面が再び点灯する。
──ごめんなさい。
一体、何に対しての謝罪なのか。
俺が勝手に片想いして、勝手に傷付いただけ。それを受け止めきれず、関わる勇気すらなくしているだけなのに。
放置された携帯は、再び画面を暗くする。
その直後──階段を駆け上がる足音が、部屋まで響いてきた。なんだ?──と身構えていると、ノックもなく姉がドアを開けて飛び込んでくる。
「あんた!あの子になにしたのよ!」
「……誰のことだよ」
俺と姉さんの共通の友人なんて、一人しかいない。”あの子”とは”あの人”のことだろう。
でも、俺はあの人には何もしていない──何も言えていない。
「また彼氏ができたって報告かと思ったのに……あんたに嫌われたって泣きながら電話してきて、何がなんだか……!」
「知らないよ。ただ──もう疲れたから連絡しないでくれって……それだけだよ」
「はぁ?なによそれ」
何もくそもない。目の前で、好きな人が、他の誰かを想って嬉しそうにしている──その光景に、耐えられなかっただけだ。
それこそ、その”好きな人”とさっさと付き合えばいい。
「あーもう、面倒くさっ。うちの弟は、なんでこんなに拗らせてるのよ……。いや、あの子もあの子で、いつまでも年なんて気にして──」
「人の部屋の前でブツブツ言うの、やめてくれ。今は……そっとしといてくれよ……」
いつもなら、こんな態度を取れば、すぐに手が飛んでくるはずなのに。今日は、一度こちらを睨み、自分の部屋へと走ってしまった。
せめてドアぐらい閉めていけよ──そう思った直後。着替えを済ませた姉が、無言のまま部屋の前を通り過ぎ、階段を下りていく。そして──玄関のドアが、バタンと閉まる音。お節介な姉の、妙に静かな行動。胸の奥に、嫌な予感だけが残った。
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ずっと続く雨。そのせいで、電気をつけずにいる部屋は暗く、気分まで沈んでいく。姉が去ったあとの静けさが、余計に静寂を強調してくる。
さっきまで何度も鳴っていた携帯は、今は嘘みたいに静かで──その沈黙が、妙に居心地悪い。
最後に届いた、”ごめんなさい”の一文。謝られたのは俺の方なのに、どうしようもない罪悪感だけが、胸の奥でじわじわと広がっていった。
「なんなんだよ……」
姉に、友達だから──とあの人を紹介されて、9年。中学3年の時に、久しぶりに会った”あの人”は、すっかり大学生になっていて。周りの女子とは、何もかも違って見えた。話し方も、仕草も、まるで別世界の人みたいで──気づけば目で追っていた。それからもう、3年。
あの人の隣には、いつも誰かがいた。新しい彼氏ができたと笑って報告する姿や、失恋して寂しそうに俯く姿。
何度も、何度も、手を伸ばしかけた。けれど“未成年”という都合のいい理由を振りかざして、そのたびに手を引っ込めた。
いや、本当は、ただ自信がなかっただけだ。振られるのが怖くて、結果が見えるのが怖くて。
「……何やってんだ、俺」
静まり返った部屋に、間の抜けた独り言が落ちる。窓の外に視線をやると、どこまでも重たい雲が空を覆っていた。
何度目か分からない溜息を吐く──それに合わせるように、階段を駆け上がる音が、また響く。そんな足音を立てる人物の心当たりなんて一人しかいなくて。外に行っていたんじゃないのか──と身構える間もなく、勢いよく部屋のドアが開かれる。
「ほら!ウダウダ言ってないで、直接話しなさい!」
バタン、と遠慮のない足音とともに姉が部屋に入ってくる。そして、その手には──見覚えのある手が引かれていた。
「だ、だって……!」
引かれるまま入ってきた彼女は、戸惑いと焦りを顔に浮かべながら俺を見ていた。目が合った瞬間、その視線が一瞬だけ逃げる。その仕草だけで、胸が締めつけられそうになる。
「だってもクソもあるか!」
姉の声が、部屋に響き渡る。
「泣きついてきたのはそっちでしょ!?だったら逃げずに、ちゃんとぶつかりなさい!」
姉はそれだけ言い残すと、バンッ──とドアを閉めて出ていった。
姉の余計なお世話のせいで、俺の部屋という小さな空間に、二人きりで取り残される。姉に無理やり連れて来られたのだろう。ドアの前で立ち竦んでいる。
お互いに、何かを話すわけでもなく。気まずい沈黙が続く。少し前まで、二人の間に続く沈黙は苦じゃなかったのに。今となっては、この沈黙がやけに重たく感じる。
何かを話さないと──と、口を開く。
「あ、あの──」
「──ごめんなさい」
俺の言葉を遮るように、弱弱しい声が部屋にこだまする。しかし、その言葉の後には何も続かなかった。
いつも陽気で、楽しそうに話していたあの人とは、まるで別人だった。立ったまま、顔を俯かせている。その姿が、見ていられなかった。
「……とりあえず、座ってください」
勉強机の椅子を指さし、促した。けれど──その言葉には応じず、ベットに座る俺の横に腰かける。しかも、俺のすぐ隣。肩が触れそうな距離。
触れていないのに、熱を感じる。その温もりが、今はただ怖くて──俺はそっと腰を浮かせる。
すると、それに合わせるように、手首を掴まれた。
「ま、待って──」
触れた手から、わずかな震えが伝わってくる。
手首に向けていた視線を上げると──そこには、今にも泣き出しそうな顔があった。そんな顔を見せられて、掴まれた腕を振り払えるはずもない。浮かせた腰を、そのまま静かに下ろす。
また、沈黙。目を逸らしたくなるほど気まずい時間。でも、手首から伝わる熱と震えが、それを許してくれなかった。
カチッカチッ──壁掛け時計の音が、やけに耳につく。
「わ、私……好きな人がいるの──」
沈黙が破られる。それは、できれば聞きたくなかった言葉。耳を塞ぎたくなるような告白。
そんな事知っている──と、この状況を生み出した姉を恨む。
「ずっと、その人が好きで……でも、年の差を考えたら、相手にされない気がして……」
年の差。どうやら、この人の想い人は”年上”らしい。最悪な情報。今すぐ、この部屋から飛び出してしまいたい。でも──手首を掴む、この人の手がそれを許してくれない。
「そんなこと急に言われても……俺に、どうしろって言うんですか。その人が誰かも知らないし、協力なんて俺には──」
「──違うの!」
強く遮る声。涙を浮かべたその顔が、まっすぐこちらを見ていた。
今日は、とことん俺の言葉を遮るな──なんて、好きな人のそんな顔を見せられて、現実逃避な思考が頭を過る。
「何が違うんですか。俺に、どうしろって言うんですか」
「違うの……そうじゃないの」
──また、それか。
胸の奥から、言葉にならない熱がこみ上げてくる。悲しさも、情けなさも、全部混じって。
俺に何を求めてるのかもわからない。俺にどうしろと言うのか。
いつもなら、絶対に振りほどかなかった手を、思いきり振りほどく。その勢いのままベッドから立ち上がる。そして、感情のまま強い言葉をぶつけてしまう。
「何を言いたいのか俺には分からないんですよ!何なんですか!いつも俺の気持ち、かき乱してばっかで!俺は……俺は、どうすればいいんですか──」
もう、いっそ恋の相談でもされた方が楽だ。いっそ、”友達その1”として扱われた方が、ずっと楽だった。
──俺が、呼ばれた場所に毎回駆けつけるたび、あんな嬉しそうな顔を見せないでくれ。
──俺の隣で、そんなふうに笑って歩かないでくれ。
飲み込んだ言葉が、喉の奥で何度も消えていく。それでも口にできないのは、その光景を、まだ手放したくないと思ってしまっているから。
そんな自分が、どうしようもなくて──この空間にいることすら、もう耐えられなかった。
「もう……ほっといて下さい……」
背を向けて、部屋のドアへと手を掛ける。まるで、そのまま逃げるように。
「──好きなの!」
背後で響く叫び声。その言葉を聞きたくないと、ドアノブを握る手がわずかに震える。このまま逃げようと、ドアに力を入れた瞬間。また、あの感触が俺の手首を掴んだ。
「いい加減にして下さい!もう、俺は──」
「──好きなの!」
少し震えた声。そのまま、言葉は続いた。
「私は……君が好きなの。ずっと……ずっと前から……」
「……は?」
理解が追いつかない。怒りでも、悲しみでもなく、ただ──脳が空白になる。
俺の手首を掴んだまま、顔を真っ赤にさせ、その割にはこちらを真っすぐ見つめてくる視線。いつも以上に熱を伝えてくるこの人の手。その熱は、ただの体温なんかじゃない。照れや不安、迷い──そんな彼女の感情そのものなのだと、ようやく気づく。
「ずっと、ずっと君が好きだったの……でも、君は高校生で。私なんて相手にされないと思ってたから……」
言葉をつっかえながら、俺に気持ちを伝えてくる。その表情は、笑おうとして笑えずにいるような──どこか諦めを滲ませた、苦しい表情だった。
そんな表情を前にして、俺の頼りない口は余計な言葉をこぼす。
「いや……それは、俺のセリフで……あ──」
「──え?……ねぇ、それって」
聞き返してくる言葉から逃げるように、ベッドに腰かける。そのまま、顔を俯かせ、両手で必死に顔を隠す。
隠したはずの顔の奥から、熱がじんわりと込み上げる。覚悟もないままこぼれた本音が、何度も何度も頭の中で再生される。
「ね、ねぇ……もう一度言って欲しいなって」
そんな縋るような言葉。
覆った手の隙間から、俺の前に立っている足が見える。俺は、俯いたまま口を開く。
「だから……俺は……俺も、ずっと──」
独り相撲──そう思っていた。でも、そうじゃなかったのかもしれない。笑えてくるような安堵と、胸の奥に差し込んだ光みたいな気持ちが、ゆっくりと心を満たしていく。
伝えた言葉に、返事が返ってこない。気まずい沈黙が続く中、そっと顔を覆っていた手を下ろす。
俯いていた視線を上げると──そこには、頬を濡らした姿があった。
「あ、あの──」
思わず、声をかける。
その言葉に反応するように、こちらへ一歩踏み出される足。泣いているはずなのに、その顔は──どこか、嬉しそうで。
「──って、危なっ!」
こちらに踏み出された足元がふらつく。次の瞬間、俺の胸元に倒れ込んできた。反射的に仰向けに倒れ込み、そのまま彼女をしっかりと抱きとめる。
腕の中に広がる、甘い香り。心をくすぐるその匂いが、妙に恥ずかしくて、顔が火照る。
「……ふふっ」
「何笑ってるんですか……」
背中に回した腕に伝わる、この人の熱。この人も照れてるのか──と、その事実が、嬉しくて仕方ない。だから俺は、そっと腕に力を込めた。
すると、腕の中で、それに応えるように小さな声が聞こえた。
「……好きだよ」
思わず、胸がぎゅっと熱くなる。勇気を出してくれてありがとう。そう思いながら、俺もゆっくりと顔を寄せる。
「……俺も、ずっと好きでした──」