金木犀-真実の愛と初恋に揺られて-(上)
「はぁ……こんな所で何やってるんですか」
「だってー……」
雨降る繁華街。雨に濡れても、夏の雨は意外と冷たくなくて。
駅前のマクドナルド店のカウンター席に座る、ポテトを咥えた女性。店に入るのが間に合わなかったのか、肩まで伸びた髪がしっとりと濡れている。
ポテトを咥えたまま、どこか上の空で外を眺めていた。泣いてるでも笑ってるでもない、その横顔が妙に寂しげに見える。
俺の手には、濡れた傘と乾いたビニール傘。ポテトを咥えているその女性に、乾いている方を押し付ける。
「帰りますよ」
「……いやだ」
小学生のような答えに、大きなため息を吐く。21にもなって、この人は何を言ってるんだ──そう思いながら、言葉を飲み込んで隣に座る。
土曜日の夕方。店内は学生客が多く、制服姿のグループばかりが目に入る。
そんな中で、一人ポテトを咥えながら、ゆっくり時間を潰しているこの人の姿は、やたらと目立っていた。周囲の視線が突き刺さっている気がして、なぜか俺の方が居たたまれなくなる。
「今回は……また振られたんですか?」
「”また”って言うなよぉ……」
隣に座る彼女は、テーブルに頬杖をついてポテトをつついている。落ち込んでるのは分かるけど、さすがにこれで何度目だ──と、ため息が出そうになる。
それでも街中を歩けば、男の視線を集めそうな容姿をしている。
そんな見た目でも、恋人との関係はどうしても長続きしないらしい。高校生の俺に、その理由は分からない。でも、こう何度も繰り返してるのを見ると、恋って容姿だけじゃどうにもならないんだなぁ──と、反面教師みたいに思ってしまう。
「どんな理由かは知りませんが……振られる度に『助けて』とか、メッセージを送ってこないで下さいよ」
「そう言っても、君はいつも来てくれるじゃんかー」
「貴女を家まで送ると、おばさんから謝礼を頂けるので」
「うちの母親はなにやってるんだ……」
謝礼ったって、手作りお菓子の“余りもの”を持たされるだけ。そもそも家にお邪魔すれば、別にこの人がいなくてもお菓子くらい貰える。
そんな謝礼を建前にした、この輸送作業も今回で5回目。
姉の友人。近所のお姉さん。そんな、何とも言えない関係の存在。
「ほら、その残り少ないポテトを食べて、早く帰りますよ。雨、これから強くなるみたいですし」
「はーい」
さっきまでの沈んだ空気はどこ行ったんだか。楽しそうにポテトを頬張る姿を見ていると、なんだかんだで微笑ましくなる。
ポテトを頬張る彼女は、年下の俺にそんなふうに見られているなんて、たぶん思ってもいない。俺の視線に気づいたのか、手に持っていたポテトをこちらに突き出してきた。
「ポテト、いる?」
「いいから食べてください」
「ぶー」
ポテトを押し返して、さっさと食べるように促す。年下の前で恥ずかしげもなく拗ねる姿に、思わず笑ってしまう。
空になったのを見届けて、黙ってトレーを横からかっさらいゴミ箱へ持っていく。
「あ、私がやるのに」
「いいですから。……ほら、帰りますよ」
「はーい」
店先で傘を広げ、雨が少し強くなってきた外へと踏み出す。夏の気温と雨の湿気で、肌にまとわりつくこの嫌な空気。
そんな空気にうんざりしながら、視線を横へと向ける。
「……傘、渡しましたよね」
「まーまー。相合傘の一つや二つ、ケチケチしないでさ」
そう言って、渡した傘をささずに俺の傘に入ってくる。
所詮はビニール傘。それほど大きくもない傘で、二人が濡れないようにするには、身体を近づけるしかない。半袖同士で、お互いの素肌どうしがぶつかる。その度に、鼓動が早くなっていく。
大通り沿いを逸れ、住宅街を歩く。
雨脚が徐々に強くなり、靴の中にじわじわと不快感が広がってくる。
それに耐えながら歩いていると、隣からの視線に気づいた。ちらちらと様子を伺うような、覗き込むような視線。
「どうかしましたか?」
「あのさ、濡れちゃいそうだし、腕組んでいい?」
「しないでくださいね」
反射的に口から出た。
ちぇ──と、隣から聞こえた声に、大きくため息を吐く。この人は、本当に距離感がバグっている。年下の俺をからかってるとしか思えない。
だから俺は、この人が嫌いなのだ──こちらの気も知らないで。
「そういう距離感、やめた方がいいですよ」
「どうしてさ?」
相変わらず、こちらの感情を汲み取ってはくれない。毎度、男に振られる度に、いろいろな場所に呼ばれる。呼ばれる理由を分かっているくせに、今日は少し違うかも──と、俺は鏡の前で格闘してしまう。
そんなことを思いながら迎えに来たのも──今回で5回目だ。
気づいてもらえるように、アピールをしているのか?と聞かれたら、そんなことはない。ないが──かいがいしく迎えに来ているのだから、少しぐらい異性として見てくれてもいいのではないか、と思ってしまう。
「男は、すぐ勘違いしちゃうからですよ」
自分で言っといて、何を言っているんだ──と思ってしまう。
それを証明するように、こちらを覗き込む視線がキョトンとしている。
その視線から逃げるように顔を逸らし、柄にもない言い訳を口にする。
「た、ただの一般論です。なので、やめましょうね、って話です」
そんな言い訳を聞いているのかいないのか。顎に指をあて、何かを考える仕草をして、ふと思いついたのか意地の悪い笑みを向けてくる。
「勘違い、してもいいけどね」
その言葉と同時に、一度は拒絶したはずの腕を絡ませてくる。その腕は、年上のくせに、俺なんかより全然細くて。男の腕とは違う柔らかさもあって。
夏の雨とはいえ、全く寒くないとは言えない気温。
俺の腕にはうっすらと鳥肌が立っているにも関わらず、腕に纏わりつく隣の人の腕は、どこか熱を持っている。
そんな薄着で、どうして寒くないんだ──と視線を向ければ、このジメっとした雨の中、小さく柄にもない鼻歌を口ずさみながら、どこか楽しそうにしていた。
「……楽しそうですね」
こちらはいつも振り回されて。いや、勝手に振り回されている──が正しいが。
一人で悩んでいる苦悩を考えると”こちらの気も知らないで”なんていう、他責の念が沸き上がってしまう。
「君は楽しくない?」
俺の、どこか拗ねた言葉に、この人は笑って返す。
楽しいか──今、俺が抱く感情はどちらかと言えば”嬉しい”だろうか。口では何と言おうが、二人で入る傘も、腕に伝わる熱も、どれもが嬉しいと感じてしまう。
自覚はしている。全部、惚れた弱みだって。
「……どうして、いつも長続きしないんですか」
「あはは……なんでだろうねぇ」
話題を逸らすつもりで、この関係の原因でもある話題を振る。
それを聞き、どこか気まずそうな反応をする。そんな反応に、もしかして心当たりが?と勘ぐってしまう。
俺のそんな思考に気付いたのか、聞いてもいないのに、慌てて言い訳を並べ始める。
「い、いやね?私も頑張って、好きになるように努力はしてるつもりなんだけど……」
「好きになる努力……?」
この人は、誰とも距離が近く。大学内では、きっと男女隔てなく仲良くしていて。恋愛もその延長線上にあるものだと思っていた。
だから、長続きしない恋愛も、片手間に付き合っているからこそ長続きしないと思っていた。しかし、そうじゃないらしい。
「せっかく告白してくれたわけだし……応えたからには、この人を好きになろう!って思ってはいるんだけどね……顔を近づけられると、つい、拒絶しちゃってさ。そしたら、振られちゃうんだよね。当たり前っちゃ当たり前かもしれないけどさ……」
解釈違いだ。いや、それはさすがに失礼か。しかし、そんなピュアな話をこの人の口から聞くとは思ってもいなかった。
距離感がバグっているにも関わらず、予想外な理由を述べられて困惑してしまう。
「なら、逆に、告白してみたらどうですか。見た目だけはいいんですから、男なら告白されれば一発OKだと思いますけど」
「今、”だけ”って言った!?ねぇ、見た目”だけ”って言ったよね!?」
こちらを振り回し、高校生男子の心を弄ぶ人なんて、見た目”だけ”で十分だ。そんな小さな反抗をすると、それに腹を立てたのか、俺の腕に絡ませていた腕をさらに強く絡ませてくる。
どうだ──と、言わんばかりの視線を向けてくる。
「いや、普通にやめてください。セクハラで姉に報告しますよ」
「はい、やめます。ごめんなさい」
「……そんなに姉のノートが大事ですか」
「君は、お姉さんの頭の良さを知らないから!私が取ったノートより、全然見やすいノートなんだから!」
そんな、情けないことを言いながら、ノートを盾にされ、しぶしぶ腕を離して距離を取る。そもそも、その姉と同じ大学なのだから、頭の良さは姉と同じはずなのに──と思うが、違うのだろうか。
距離を取ったことにより、傘からはみ出しかけているため、傘を傾ける。傘を傾ければ当然、自分がはみ出す──まあ、いつものことだ。
夕方の住宅街。雨も合わさり、人の気配を全く感じない帰り道。
途切れた会話。その沈黙は苦ではないが、なんとなく会話をしていたくて、ずっと思っていたことを口にする。
「今、気になる人とか……いたりするんですか?」
この人の情報なんて、ほとんどが姉伝手でしか聞いたことはない。その中で、この人のそんな話は聞いたことがなかった。いや、彼氏ができた、という話は聞いても長続きはしない。
だから──もしかしたら、この人には、好きな人がいないのかもしれない。そう思った瞬間、心のどこかで“それなら可能性があるかも”なんて、情けない期待が湧いてきてしまう。
「き、気になる人!?……いやー、あはは……気になる人かぁ」
隣で、視線を泳がせながら笑っている姿。
その顔を見た瞬間、ああ──それが”答え”だと、分かってしまった
「気になる人いるのに、色々な男と付き合うのとか、よくないと思いますよ」
「分かってるんだけどさぁ……私が躊躇ってる行動を、実行してるだけで尊敬しちゃうし。……なんかね、その人と……付き合っていいのかな、って」
「ふーん……そうなんですね」
そんな理由で付き合ってるのなら、俺が告白しても、付き合ってくれるんだろうか……でも、それって、嬉しいのか?
”好き”って気持ちをぶつけて、じゃあ試しに──なんて応えられて。そんなの、俺が欲しかったものじゃない
異性として見られるには、どうすればいいのだろうか。いや、こっちは未成年の高校生。この人は21歳。最初から対象じゃないのかもしれない。始まる前から終わっている。
それでも、少しだけ。”もしも”なんて、考えたくなる自分が、情けなかった。
「あ、でもね……その……いつも、顔を近づけられると、つい拒んじゃうから……実は、キスもまだ、したことないんだよね」
珍しく、声が小さくなる。それが、想い人を思っての照れなのか──いじらしいその態度が、可愛いと思ってしまう自分がいる。
でも、その気持ちは。やっぱり、俺じゃない“誰か”に向けられていて。
「ね、ねぇ。君は、どう思う?付き合った人数は多いけど……嫌じゃないかな?」
普段は、俺に対して雑に笑って、雑に構ってくるくせに。今だけは、まるで“恋する女の子”みたいな声音で問いかけてくる。いや、恋してるのか。
だけど、その気持ちは。俺に向けられたものじゃない。なんだか、どうでもよくなってきた。
この問いかけも、その目の揺らぎも──全部、他の男に向けてくれ。
灰色になっていく風景。その中で、この“乙女”を視界に入れるのが嫌になって、俺はそっと顔を俯かせた
「……それ、本人に言えばいいんじゃないですか。ていうか──いつもの『助けて』もその人に送ればよくないですか。気があるなら、きっと来てくれますよ」
「えっ、来てくれたら脈アリってことかな!?」
その声が、やけに明るく響いた。傘を持つ指先に、力がこもる。
──うるさいな。
今すぐこの場から離れたい。
袖を引っ張られる感覚に釣られて、顔を向ける。
「あのさ!明日、予定ある?今日、傘持って来てくれたお礼も兼ねてさ。どこかに行かない?お金なら私が──」
吐き気がした。
光明が見えたと言わんばかりの笑顔──まるで、いい作戦でも思いついたみたいに。そんな笑顔を、見せないでくれ。
「──もう、疲れたんで、呼ばないでもらっていいですか」
「……え?」
手に持つ傘を押し付け、一度も開かれることがなかった、もう一本の傘を奪い取る。そのまま、雨の中を駆ける。
一瞬で服と身体が、雨によって濡れていく。背後で俺の名前を呼ぶ声が聞こえた気がしたが、今はそれすら聞きたくなくて、全力で走り去る──。