夏椿-愛らしさと儚さの向こうに-(下)
「ワールドカップの出場が決まったよ。しかもスタメンだ」
全国大会優勝の知らせを君に持ってきた日から、もう5年が経った。
俺は高校卒業後、そのままプロへ入団し、何もかも置き去りにして駆け足で夢をもぎ取りに行った。
周りから焦り過ぎだ──と止められたが、時間がない気がしたから。
「ワールドカップ……それ、私も知ってます。今度こそ”世界で一番”を決めるんですよね?」
「なんだ、チビでも知ってたか」
窓の外は、雪が静かに降っていた。
ベッド横に座る俺の方を見るため、横になったまま顔だけをこちらに向ける君。あんなに綺麗だった髪の毛は、やせ細り、触れたら抜け落ちてしまいそうで──伸ばした指先をそっと止めた。
「チビって……来年には私、15歳ですよ?そんなこと言ったら、お兄さんは24歳ぐらいでしたっけ?……ふふ、お兄さんの方こそ”おじさん”じゃないですか」
「誰がおじさんだ」
言葉の端々に、息が少しずつ切れるような弱さが混じる。言葉どころか、最近は起き上がっている姿すらほとんど見なくなった。
出会った頃の『君が泣いて、俺が笑っていた』立場が、今では逆になりそうで。
「なぁ」
「ん-?どうしたの?」
「俺と最初に会った時さ……“俺は有名人だ”って言ったの、憶えてるか?」
「あぁ……言ってたね。あれ、嘘だったんでしょ?……知ってるよ」
笑顔を向けてくれる君。でも、その笑顔には力はなくて。
そんな笑顔に、俺は力なく笑い返す。
「何言ってんだ。俺は今、街中を歩けば”サッカーの人だ!”ってガキにも声かけられるんだぜ?」
「へぇ……凄いじゃん。私、テレビ見れないから、お兄さんが凄い人って知らなかった」
君のために、現実にしたんだ──そんな事は言えなくて。君の前では”凄い人”でいたかったから。
結局、俺の頑張りに意味はあったのだろうか──君に届けるためだけに走ってきたのに。
年を重ねるごとに、細くなっていく君。日々を重ねるごとに、元気がなくなっていく君。
そんな自問自答を繰り返し、練習で辛い日々で、足元が崩れそうになる。それでも──
「えへへ……じゃあ、ファン1号の私は、みんなに自慢できちゃうね」
「あぁ、俺様のファン1号とか、最強だぜ」
──君のその笑顔を生み出せるなら、いくらでも頑張れた。
「7月19日だ」
「なにがー?」
「”最後の試合”の日だよ。応援、来てくれるんだろ。特等席、取っとくからさ」
「うーん……行きたいけど……行けるかなぁ」
「ニュージャージーだぞ、ニュージャージー。アメリカだぜ」
「わっ!私も海外デビューだ」
二人で、くだらないことを話して笑う。この時間が、あと何度繰り返せるだろうか──そう思ってしまうが、それ以上に、この空間は心から心地よくて。
腕時計に視線を落として、時間を確認する。予定していた時間が迫っていることに、後ろ髪を引かれる。それでも、小さく息を吐いて自分に喝を入れ、立ち上がる。
ベッドに力なく投げ出されている君の手をそっと取る。
「わー、お兄さんの手、大きいね……前よりもっと大きくなった気がする」
「俺はもう、ガキじゃないからな」
「それは、私がガキだって言ってるー?」
君の手は、小さいだけじゃなく、今にも折れそうで。こんな手じゃ、トロフィーを持たせてやれねぇじゃねか──なんて心の内でぼやく。
「手、グーにできるか?」
「あ、いつものやつだね。いいよー」
力なく握られる君の拳。その小さな拳に、俺の拳をそっと当てる。昔みたいに、僅かでも押し返してくれるんじゃないかと期待して──でも、何の力も返ってこなかった。
「次、いつ顔出せるかわからねぇから。世界一取るには、休めないからな」
「あらら……それは残念」
俺は重さを感じない君の腕を、ゆっくりとベッドに戻した。
床に置いていた、ボストンバッグを肩にかけ、ベッドに背を向ける。このやり取りを、あと何度出来るのだろうか──そんな柄にもないことを考えてしまい、思わず小さく息を吐いて苦笑いした
「ねぇ、お兄さん」
「どうした」
病室を出る直前、呼び止められる。珍しいな──なんて思いながら、振り返る。
振り向いた先には、上半身だけを起こした君がいた。その表情は、どこか申し訳なさそうで、視線を泳がせている。
「私、ずっと思ってたことがあってね……こんな私に、ずーっと付き合ってくれたお兄さんって、バカだなぁって」
「……何言ってんだよ」
元を辿れば、自分の吐いた嘘から始まった。
付き合ったんじゃない。君を、俺に付き合わせたんだ。
だからこそ、俺は──と、色々な言葉が口からこぼれそうになる。でも、君の申し訳なさそうな表情を笑顔にするには、この言葉だと思って──。
「俺はな。バカはバカでも”サッカー馬鹿”なんだよ」
「ふふ……”サッカー馬鹿”ってなにそれ」
「まぁ、見てろ。自分の吐いた言葉を現実にするために、がむしゃらに──お前のためだけに走って来た”サッカー馬鹿”を。クソデカくて、世界一のトロフィーを見せてやるから」
「ん-……じゃあ、楽しみにしてるからね?」
「あぁ。ちゃんと待ってろよ」
「うん!」
久しぶりに見た、君の力強い頷き。その笑顔に力を貰い、病室を後にする──。
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「ゴールデンボール賞、受賞おめでとうございます!世界という舞台での──」
「──チビ、見てっか!世界だ!お前がファンになったサッカー馬鹿は、世界を取ったぞ!」
何万人という観客の盛り上がり。何台ものカメラのフラッシュ。仲間の雄たけび。その全てのせいで、地面が揺れていると錯覚する。
試合前は曇天だった空も、今は雲が割れて、太陽が顔を出している。
「これが、クソデカいトロフィーだ!今度は写真じゃない!ちゃんと……お前の目の前に持ってってやるからな!」
今日の日付は伝えた。今日だけはテレビを見せて欲しいと伝えた。
だから──テレビの向こうで見ているはずの君に、精一杯伝える。
──嘘から始まった関係でも、現実にしてしまえば嘘じゃない、と。
──俺はやり遂げた。だから、次は君の番だ。ちゃんと……待ってるからな、と。
「いいか!世界を取った男の、ファン1号だぞ!一緒に、テレビに出るぞ!見る側じゃない!出る側だ!……だから、来いよ!」
夢にまで見たトロフィーが、とても重い。
勝ったはずなのに、でもどこか空しくて。
届くはずもなくて、でも届いてほしかった。伝わるはずもなくて、でも伝えたかった。
俺は撮影用のカメラに向かって、拳を付きだす。
お互いに頑張ろう──という合図。けれど、もう押し返してくれる小さな手はどこにもない。
突き出した拳を、胸の前で握り締めてから、そっと引っ込める。心の奥で、君との時間のすべてが、静かに遠くへ行ってしまった気がした。
俺は両手でトロフィーを持ち直し、澄んだ空へ突き上げる。
そこにいない、君に見せつけるかのように。
観客は俺の、その行動に湧き上がっている。何万人ものファンの歓声が響いているのに──。
一番欲しかった、あの小さな「頑張って」の声だけが、どこにも聞こえなかった──。