ガクアジサイ-届かない想いと揺れる心-(下)
「いってきまーす」
「車、気を付けるのよー」
朝5時。中学の頃、土日のこの時間はランニングをしていた。朝の日が出るか出ないかのギリギリの時間帯。その中で走るのが好きだった。
しかし、その日課は、高校に上がった際に写真撮影の”ついで”になった。
手に持つのは、自分のスマホ。練習するにしても、ちゃんとしたカメラの方がいいのは?と思い、先輩に聞いてみたことがある。
『最近のスマホのカメラも、だいぶ性能いいしね。そりゃあ、一眼レフには劣るけど。その代わり、スマホなら手軽に写真取れるし。日頃はスマホでもいいと思うよ。それに……カメラは、やっぱり荷物になるからね』
先輩のそんなアドバイスを聞いた週末から、私は日課のランニングを写真撮影と変えた。今までは通り道でしかなかった公園も、レンズ越しで見れば、違った世界が広がっていた。
木々の隙間から漏れる朝日。朝露で濡れた下草。様々な新しい世界。今まで、ろくに埋まることがなかったスマホのメモリ容量は、そろそろ限界を迎える。
「確か、ゆーえすびー?にデータを移動できるって先輩言ってたな……今度、教えてもらおうかな」
気づけば思考の片隅に現れる先輩。そもそも、この日課すら先輩に感化された、という意味では、私の行動原理すら先輩なわけで。
レンズ越しの風景を切り取る時も、先輩ならどんなふうに撮るだろう──なんて考えてしまって。
「あー、もう!モヤモヤする!」
大声を出した瞬間に、リードに繋がれた犬と、並んで走っている女性に驚かれてしまい、顔が熱くなるのがわかる。頭を何度も下げ、走ってその場をあとにする。
これも先輩のせいだ──と八つ当たりな思考を抱えながら、先ほどの羞恥心を誤魔化すように、町中へ向けて走り出す。
土曜日のこの時間は、車もそれほど走っておらず。日中の町中とは違い、ほぼ静寂に包まれていた。そんな街中で、路地でくつろいでいる猫や、いつもは人でごった返している、静かな駅前を撮る。
この写真、先輩が見たら褒めてくれるかな──なんて、一人で楽しんで。
今日はそろそろ帰ろうか、と撮った写真を眺めていると、画面に君からのLINEの通知が届く。既読を付けないように確認したそれは、猫の写真。
私が練習のために撮った猫の写真を見て、私が猫好きだと勘違いして、定期的に送られてくるようになったそれ。猫嫌いというわけでもないし、むしろ猫は好きで。でも、私を喜ばせようとしている君の”好意”が眩しくて。
「君は優しすぎるんだよ……」
君の優しさは嬉しい。ちゃんと気持ちを伝えない私に対しても、変わらず接してくれる君の原動は、とても好ましく思う。ハッキリしない私が悪い。それが分かっていても、つい、君に甘えてしまっている。
振り向いてくれない先輩と、私を”女の子”として扱ってくれる君。
先輩が好き。それは変わらない。変わらないけれど──振り向いてくれないなら、違う人の手を取ってもいいのではないか、とこの二週間を経て弱い私が囁くようになった。
「……私、最低すぎるでしょ」
自嘲気味に吐いた息が朝の空気に溶けていく。
揺れ動いてしまっている心。そんな弱い自分が情けなくて、胸の奥がひりつく。
勝手に好意を寄せて、一方的に振り向いてほしいと願って。それが叶わないからって、好意を寄せてくれる君を“代わり”みたいに扱おうとしてる。
一度湧き始めた、自分に対する罪の意識。自覚してしまったそれは、止まることを知らず心を締め付ける。
そんな私に追い打ちをするかのように、君から追加のメッセージが送られてくる。
『明日、もし予定が空いてたら映画に行きませんか?』
純粋な好意。それが全面に伝わってくる君の誘い。優しいその言葉に、思わず寄りかかりたくなる。
しかし、そんな弱い自分を切り捨てたくて。君に期待させてしまっている自分を消したくて。
いっそ、先輩がもっと冷たくしてくれればいいのに──なんて他人任せな考えが浮かんでしまう。
既読を付けることができない君からのメッセージ。それでも君は、明日の映画スケジュールやその後の予定まで提案をしてくれて。
そのうえ、空いてなかったら全然いいよ!──なんて、気遣いも忘れない君。
──優しい。
──嬉しい。
でも、君の隣を歩く自分を想像すると、どうしようもなく悲しくなってしまう。
それは先輩を好き、という気持ちを裏切っているから。弱い自分を受け入れて、君を傷付けているから。
私は先輩の撮る写真が好きで、写真を撮っている先輩が好きで──だから君の気持には応えられない。
朝の町中。
人の通りがほとんどない場所で、無意識に目に涙が浮かんでしまう。
自分か全部悪いのに、泣いて誤魔化そうとしてる自分が情けなくて。どうにか抑え込もうとするが、止めようとするそばから涙が頬を伝っていく。
これはダメだ、早く家に帰らないと──と思うが、嗚咽すら出始めた体は言うことを聞かなくて。そんな限界な状態。
だというのに、前方からタイミングの悪い声がした。
「あれ、こんな所で会うなんて──って、どうしたの!?」
──今、一番聞きたくない声。
──今、一番すがりたい声。
俯かせていた涙で濡れた顔を上げる。いつもは澄ましている態度が、私のせいで崩れてしまっている先輩。
そんな先輩の表情が面白くて、涙の残る顔で、つい笑ってしまう。先ほどまで崩れかけていた心が、先輩の表情一つで持ち直す。緩み切った気持ち。だから、それは本当に無意識に。自然と口に出てしまった。
「好きです、先輩」
先輩が私を”女の子”として見てくれるまで──なんて思っていたのに。その言葉は、思った以上にすんなりと口からこぼれてしまった。
先輩は、何かを言いたいのか口を開いたり閉じたりしていて。
「私、先輩を一目見たときから……ううん、先輩の写真を見たときから好きでした」
何かを言おうとしている先輩の番を待たず、一度言葉を紡いでしまった私の口は次から次へと言葉がこぼれる。
「本当は、先輩に異性として見てほしい。見てくれてから気持ちを伝えよう、って思ってたんですよ?でも、先輩、全然振り向いてくれないし。そのくせ、私が弱ってるときに現れるとか……ずるいですよ、先輩」
自分で言って、涙声のまま、どこか可笑しく笑ってしまう。
「ねぇ、先輩。最近、私の写真をちょくちょく撮ってるでしょ」
「え、なんで知っ──」
「──この前、先輩のカメラのデータ見ちゃいました」
顔を赤らめる先輩。それが”怒り”ではなく”照れ”だといいな、と期待して。
私の想像が──いや、願望があってるといいな、と期待して。
「私、こっそり先輩の写真撮ってるんです。それは先輩が好きだからです。……だから、もし……先輩も同じ理由で撮っているとしたら……勘違いじゃなくて、もし先輩が私のことを……」
声が震える。言葉が喉に引っかかって、吐き出せない。“違うかもしれない”と思ってしまうから。“信じてしまいたい”自分が怖いから。 喉の奥に引っかかる言葉を、必死に堪える。
それでも先輩の顔を、目を、見つめてしまう。
「付き合ってください」
十文字にも満たない言葉。そんな短い言葉を伝えるだけで、心臓がうるさいぐらいに鳴る。
目を瞑って、この場から立ち去りたい気持ちを押し止める。先輩から視線を外さず、揺れている先輩の目を見る。
その揺れは、どういう理由なのか。それを聞くのが怖くて。
流れる沈黙に、ふり絞った勇気は限界で。その沈黙が答えなんじゃないか、と胸の奥がじわじわと熱くなって、気づけば涙がまた零れていた。
言いたいことと、言いたくないことが、ぐしゃぐしゃに絡まっていく。息を吸えば、喉の奥で言葉が詰まって苦しくなる。
「……ごめんなさい、先輩。やっぱり今のは──」
口を開くことすら勇気がいるというのに、先輩は私の言葉にかぶせるように口を開く。たどたどしいその言葉。そして、照れくさそうに笑う先輩。
それを聞く私は、泣きながら笑うなんて器用なことをして。でも、この涙はさっきの涙と違い、止めたくないと思った。
こんな時ですら私にカメラを向ける先輩。そんな先輩に呆れてしまうが、先輩らしいとも思う。
レンズ越しに、私だけを見てくれている先輩を見て、君にちゃんと謝らなきゃ──と思った。君の優しさはずっと嬉しかったんだよって。
でも今は──笑ってカメラを向ける先輩からカメラを奪うため、ゆっくりと歩き出す。