赤い彼岸花 -情熱と諦めの音色-(上)
開いて頂き、ありがとうございます。
未熟な所もあるかと思いますが、よろしくお願いします。
まだ誰もいない音楽室。小さな窓から中をそっと覗いてから、鍵を差し込む。職員室で借りてきた鍵を使い、カチリ、と音を立ててドアを開ける。すると──静けさに包まれた空間が、目の前に広がった。
4月中旬。まだ冷たい風が残る空気の中へ、私はそっと足を踏み入れる。
──シン、と静まり返った音楽室。私はケースからトランペットを取り出し、口もとへと運ぶ。春先の朝は、まだ寒い。登校中に冷えたマウスピースに触れた瞬間、思わず口を離した。
マウスピースを手の中で温める。空いた手で壁際のスイッチに手を伸ばして暖房を入れると、機械音とともに、温風がゆっくりと広がっていく。
部屋も少しずつ暖かくなり始めた頃、私は息を整え、ゆっくりと音を出し始める。
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中学から始めた音楽は、高校でも続けた。
中学の頃とは違って、覚える楽譜も多くなり、披露の場も増えていき、そんな日々は、中学よりもずっと充実していた。
そして、高校では初めて他の部活の応援に参加することになった。吹奏楽部の新入生として、初めて応援したのは──野球部の新入生同士による紅白戦。
練習期間なんて、たったの1ヵ月。演奏したのも、まだまだ未熟な曲。それでも初めての誰かに贈るための音だった。
当時の私達が紡いだ初めての応援曲。そんな中で、私はトランペットを吹く手は止めずに、視線だけを、グラウンドの中央で投げている彼へと向けていた。
1年生の時から、2年間想い続けた片想い。気づけば、音楽を続ける理由は“彼に届けたい”という想いに、そっとすり替わっていた。
本来は、誰か特定の人に贈る音じゃなかったのに。いつしか彼だけを想って、音を紡いでいた。
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「部長さんは今日も一番乗りかー」
指は動き続けているのに、思考だけがふっと遠のいていた。そんなとき、音楽室の入り口から声が聞こえてきた。
「まぁ……家も近いしね。習慣になっちゃった」
中学からの親友。部活での相棒。いつも隣にいた存在。
そんな彼女が、私と同じようにマウスピースを掌に包んだまま、呟く。
「あと半年だね」
私たち3年生は、10月末をもって引退する。卒業まではまだ時間があるけれど、吹奏楽部としては10月で終わってしまう。
「ほんとに、伝えなくていいの?」
「今さら伝えても……ね」
笑いながらそう返したけど、本当はもう何度も悩んだ。
好きだと気づいた頃には、彼の隣には別の誰かがいて。自分の想いに気づいたのが遅かった。それだけの話。名前を呼んだことも、呼ばれたこともない。ただ、遠くからグラウンドの中央で投げるその背中を、ずっと見ていた。
私の想いは、一方的で、勝手なものだった。だから──音だけでいい。
「引き際が良すぎるのも考えものよね」
そうつぶやいた親友に、私は苦笑いを返す。
自分でも損をしているとわかっていた。それでも、自分で決めた幕切れぐらいは走り切りたかったから。
私は親友に謝る。
「相談、乗ってくれたのにごめんね」
私の言葉に、親友は何も返さなかった。ただ、ふっと息を整えてトランペットにそっと音を乗せた。私も応えるように吹き始める。ふたりの音が、ゆっくりと重なっていく。
音楽室の静けさに溶け込みながら、柔らかな旋律がゆっくりと広がっていく。その音は、他の部員たちが集まり始めても、しばらく止むことはなかった。
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野球部は、あと二つ勝てば甲子園に行けるらしい。……らしい、というのは彼に対する興味が薄れたわけではない。夏は他のことに気を割く余裕がなかった。
吹奏楽部にとって、夏にはこのメンバーで挑む最後の公式コンクールが控えていた。大会応援の練習や、期末試験まで重なっていて——。気づけば、夏は運動部以上に慌ただしい日々だった。
そんな夏休み。学校の教室で私はひとり、トランペットの練習をしていた。一人、空き教室でトランペットを吹いていると、ふいにドアを叩く音が響いた。振り返ると、そこには土で茶色く染まったユニフォームを着た君が立っていた。
「なにか……御用ですか?」
口から出たのは、そんなよそ行きの言葉。君は笑いながらこちらに歩いてくる。フェンス越しにしか知らなかった君が、今はすぐ目の前にいる。
きっと一年前の私なら、恋する乙女の目で見つめていたに違いない。
「同級生なのに、どうしてそんなにかたっ苦しいのさ」
君はそう言って、近くの席に座ると私に笑いかけた。
私は、想いを伝えることも、恋の成就も、すべて諦めた。音を届けることで、彼の夢を応援しようと決めたのだ。
それだというのに、あんなに静かだった心に、まるで不意に飛び込んできた“雑音”みたいに──君の声は私を乱してくる。そんな風に思う自分がいて──それに、ひどく驚いた。
「君が吹奏楽部の部長さんだったんだ」
私の心の内の戸惑いなんて知らないまま、君は私に語り掛ける。
応援がどれほど力になっているか。君はそれを、まっすぐな言葉で伝えてくれる。
「それが……仕事だったので」
気持ちとは裏腹に、つい口をついて出たのは、そんなありきたりな一言。それでも君は私に笑いかける。
「ま、理由なんてどうでもいいさ。吹部に助けられてたのは変わらないしさ」
試合中の彼しか知らなかった。諦めずに最後までボールを追いかける、真剣な顔。全身土だらけになっても気にしない。そんな彼が好きだった。でも、そんな彼の知らない一面を今さら知ってしまって──。
ずっと“あの彼”を見ていたはずなのに──今、目の前にいる“君”に、また心を奪われている自分に気づいてしまう。
──あぁ、今の私にとっては本当に雑音だ。君の声は私のせっかく凪いでいた心をかき乱していく。せっかく諦めたのに……本当にやめてほしい。
そんな八つ当たりに近い感情を飲み込み、私は静かに言葉を返す。
「まだ練習中なので、できれば練習させて欲しいです」
そんな拒絶に近い言葉も、君の前では意味を成さないみたいで。
「静かにしてるからさ、君の音、聴かせてよ」
ふざけているわけでも、おちょくってるわけでもない。そのまっすぐな視線を見れば、それは分かった。君にお願いされて、断れる私なんて最初からいないくせに。
「静かにしててくださいよ」
そんなふうに、わざとぶっきらぼうに返して肺に息をためる。
──君に届ける音だよ。君だけを想って吹いてるんだよ。そんな声に出せない言葉を音に乗せる。
自分でも、バカらしいと思う。相手がいる人をずっと想い続けて。叶わない恋を手放せなくて。でも、感情なんて頭でコントロールは出来るものじゃない。
バカな私が、冷静な私の前に、申し訳なさそうに歩み寄っていく。心の中に浮かんだそんな光景が、少しだけ可笑しくて──少しだけ、苦しかった。
今、人前で吹けるギリギリのところで音を止める。君の方を向くと、さっきまでの笑顔とは違う、どこかスッキリとした表情をしていた。
「君の音……だったんだな」
君の不意な詩的な一言。私の頭の中には疑問符が並ぶ。
そんな私の表情が可笑しかったのか、君は笑った。だけど少しして、恥ずかしそうな表情へ変わる。
「あー、いやさ。同じ楽器の音なんて、聞き分けられるわけねぇはずなんだけどさ。君の音聞いたら、いつもマウンドで投げてる時に一際耳に届く音と同じだな、って思ってさ」
他の誰かが聞いていたら、きっと笑うと思う。でも、私にとっては、それだけで救われた気持ちになった。
冷静な私とバカな私。そんな二人を遠くから見つめる、もう一人の私。
どうせ──音なんて、聞こえやしない。
どうせ──気持ちなんて、届くはずがない。
そんな悲観的な私。そんな私を否定してくれた言葉。それだけで、もう十分だった。
だから──君を教室から追い出す。
「……意味、よくわかんないです。そろそろ、練習をしたいのでいいですか」
君の手首を掴み、そのまま廊下に出る。初めて触れた君の体温に、心が少しだけ揺れる。
一瞬、手を──そんな思いが、ふと浮かぶ。手を繋ぎたくなっている自分を見つけて、バカみたい、って思いながら手を離す。
「もっと良い音、届けますんで」
言い終えたあと、自分のバカみたいな迷いを断ち切るようにドアを閉める。
君は30分もいなかったはずなのに──君がいなくなった教室の静けさが、やけに耳に触る。廊下からは、君が立ち去る音が聞こえる。それが余計に胸の奥を締めつけてくる。
「……今さら私の中に入ってこないでよ」
窓側の席に座り、天井を仰ぐ。蓋をした感情が主張をしてくる。それに対して耳を塞ぎ、トランペットを手に取る。
君に届けるための音を、もっと輝かせたくて──。
もしよければ、
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