『届かぬ想い』
『届かぬ想い』
斎藤修一は、妻を亡くして五年になっていた。五十二歳の彼の人生は、これまで仕事と家庭以外の何ものも見えていなかった。毎朝六時に起き、七時半には会社へ向かう。そして夜八時に帰宅する。休日も書類の整理や来週の準備に費やす。そんな日々を当たり前のように過ごしてきた。
妻・由美子の死は突然だった。交通事故。信号待ちをしていた由美子の車に、制御を失ったトラックが突っ込んだのだ。その日、修一は重要な取引先との会議があり、由美子からの「気をつけて帰ってきてね」というメッセージに返事すらしなかった。永遠に返せなくなるとは思いもしなかった。
妻が他界してからは、その生活パターンがさらに強固なものとなった。仕事に没頭することで、心の隙間を埋めようとしていたのかもしれない。そして何より、あの日返事をしなかった罪悪感から逃れるために。
そんな修一の日常に、小さな変化が訪れたのは、新しいプロジェクトのミーティングの日だった。会議室に入ると、見知らぬ女性が窓際に立っていた。その後ろ姿に、修一は一瞬足を止めた。どこか懐かしい感覚。
「斎藤さん、こちら高橋明美さんです。今回のプロジェクトでマーケティング部門から参加されます」
女性が振り向いた瞬間、修一の胸に衝撃が走った。その端正な顔立ち、柔らかな目元は、どこか亡き妻を思わせるものがあった。
「よろしくお願いします、斎藤さん」
明美の声は、優しく響いた。その声色までもが由美子に似ていた。
「あ、はい。よろしくお願いします」
動揺を隠すように、修一は椅子に腰を下ろした。
それから数ヶ月、修一と明美は仕事で顔を合わせる機会が増えていった。最初は純粋に仕事の話だけだったが、次第に雑談も交わすようになっていた。明美には夫がいることを知っていた。それでも、修一の心の中で何かが芽生え始めていた。
ある日の帰り道、激しい雷雨に見舞われた二人は、駅近くの喫茶店に駆け込んだ。
「すごい雨ですね」濡れた髪を整えながら明美が言った。
「そうですね。こんな日は車で来ればよかった」
「私、雷が怖いんです」
彼女の言葉に、修一はハッとした。由美子もまた、雷が苦手だった。
「大丈夫ですよ。すぐに過ぎますから」
何気なく彼女の手に自分の手を重ねていた。それに気づいて慌てて引っ込めようとした時、明美が小さく呟いた。
「ありがとう...修一さん」
修一は驚いた。会社では必ず「斎藤さん」と呼ばれていたからだ。その瞬間、雷鳴と共に店内が一瞬暗くなった。明かりが戻ると、明美は何事もなかったかのように微笑んでいた。
修一はこれまで経験したことのない感情に戸惑った。四十年以上生きてきて、妻以外の女性に心惹かれることがなかった彼にとって、この感情は新鮮で、同時に苦しいものだった。さらに、明美の中に由美子の面影を見出している自分に混乱していた。
「これは恋なのだろうか、それとも過去への執着なのか」
そう自問自答する日々が続いた。
プロジェクトが終わりに近づくある日、修一は思い切って明美を食事に誘った。仕事の打ち上げという名目で。
「お疲れ様でした。よかったら、今度お食事でもどうですか」
言葉を発した瞬間、自分の心臓の鼓動が激しくなるのを感じた。
「ええ、喜んで」
明美の返事は予想以上に快いものだった。しかし、その瞬間、彼女の表情が一瞬だけ曇ったような気がした。
その夜、小さな和食店で二人は食事をした。仕事の話から始まり、次第に個人的な話へと移っていった。明美は夫との関係についても少し話した。二人の間に子どもはなく、夫は仕事で忙しいと言っていた。
「実は...私たち、最近上手くいっていないんです」
彼女が俯いて言った。修一は何と返していいか分からなかった。
「お互い忙しくて...すれ違いが多くて」
修一は自分の気持ちを押し殺しながらも、明美と過ごす時間を心から楽しんでいた。いつしか二人の食事会は定期的なものになっていった。
ある日、修一は明美に小さなプレゼントを渡した。それは彼女が以前欲しいと言っていた洋書だった。
「これ...私が欲しいと言っていた本ですね。覚えていてくださったんですね」
明美は嬉しそうに笑った。その笑顔を見て、修一の心はさらに高鳴った。
「実は...」明美が言葉を詰まらせた。「私、昔あなたに会ったことがあるんです」
修一は驚いた。「え?いつ?」
明美はハンドバッグから古い写真を取り出した。それは二十年以上前の、大学時代のサークル合宿の集合写真だった。そこには若き日の修一と、その隣に立つ見知らぬ女性の姿があった。
「これ...」
「私の姉です。明子といいます。彼女、あなたのことをずっと好きだったんです」
修一の頭の中で記憶が蘇った。確かに大学時代、同じサークルで親しくしていた女性がいた。明子。しかし彼女が自分に特別な感情を抱いていたことなど、全く気づかなかった。
「彼女は今...?」
「十年前に亡くなりました。病気で。最期まであなたのことを忘れませんでした」
明美の目には涙が浮かんでいた。
「実は私、姉の形見の写真を見て、あなたのことを知っていたんです。そして偶然、同じ会社で働くことになって...」
修一は言葉を失った。運命の不思議さに戸惑いを覚えた。もし自分が明子の気持ちに気づいていたら...今頃は別の人生を歩んでいたかもしれない。由美子との出会いもなかったかもしれない。そして今、明子の妹である明美と再会している。
それからというもの、修一のプレゼントはだんだんと高価なものになっていった。ハンドバッグ、アクセサリー、そして高級なディナー。それは過去の自分への贖罪のようでもあり、今の感情の表れでもあった。
会社の同僚たちからは、「斎藤さんが変わった」と噂されるようになった。いつもは几帳面で保守的な彼が、突然おしゃれになり、表情も柔らかくなっていた。
ある日の午後、修一は明美の机に近づいた時、彼女の手帳が開いているのに気づいた。そこには「修一、由美子と同じネックレスを買いました」と書かれていた。修一は凍りついた。由美子の名前がなぜそこにあるのか。そして彼女がどうして由美子のネックレスについて知っているのか。
夕方、明美を問い詰めると、彼女は涙ながらに告白した。
「実は...由美子さんは私の従姉妹だったんです」
修一の世界が揺れた。
「私たち、子供の頃はよく一緒に遊んだんです。でも大人になってからは疎遠で...彼女が亡くなったことも後から知りました」
「なぜ黙っていた?」
「最初は言おうと思ったんです。でも...あなたが私に心を開き始めた時、怖くなって...」
修一の中では葛藤が続いていた。明美は既婚者である。そして、自分は同僚として彼女と接しながらも、心の中では彼女を愛していた。さらに今、彼女が亡き妻の血縁だと知り、感情は複雑に絡み合った。
ある冬の夜、二人は高級レストランでディナーを楽しんでいた。窓の外では雪が静かに降り始めていた。
「明美さん、私...」
修一は長い間胸の内に秘めていた想いを、ついに口にしようとした。しかし、その時、明美の携帯電話が鳴った。
「すみません、夫からです」
明美は電話に出た。修一は彼女の表情が徐々に曇っていくのを見た。電話を切った明美は、申し訳なさそうに修一を見た。
「斎藤さん、すみません。夫が急に帰ってくるそうで...」
「ああ、もちろん。お帰りください」
修一は微笑みながら答えた。心の中では何かが崩れ落ちていくような感覚があった。
その夜、一人アパートに戻った修一は、亡き妻の写真を手に取った。「由美子...君の従姉妹だったんだね」と呟いた。そして明美の言葉を思い出した。「由美子さんはね、いつもあなたのことを『世界一優しい人』って言ってたわ」
翌日、修一は会社で明美と顔を合わせた。彼女はいつもと変わらない笑顔で挨拶をした。
「昨日はごちそうさまでした、斎藤さん」
「いえ、こちらこそ」
その日から、修一は少しずつ距離を置くようになった。プレゼントも控え、二人きりの食事も減らしていった。それは自分自身と明美の両方のためだった。
ある日、明美から一通のメールが届いた。
「斎藤さん、実は私、離婚することになりました。」
修一は動揺した。そして続きを読んだ。
「でも、それはあなたのためではありません。長い間の問題だったんです。新しい人生を始めるために、転職も決めました。」
春が訪れた頃、明美は退職の挨拶に修一の元を訪れた。最後の挨拶の日、明美は修一に小さな贈り物を渡した。
「いつも気にかけてくださって、ありがとうございました」
それは手編みのマフラーだった。
「これ...」
「姉が大学時代にあなたのために編んでいたものです。完成しないまま残されていたので、私が仕上げました」
修一は言葉を失った。二十年以上の時を経て、明子の想いが形となって自分の手元に届いたのだ。
「もし、二十年前...」
「いいえ、すべては運命だったのでしょう。あなたには由美子さんとの大切な時間があった。私には私の道がある」
明美はそう言って優しく微笑んだ。その笑顔は、明子にも由美子にも似ていた。そして彼女自身のものでもあった。
「でも、もしかしたら...いつか」
明美はそれだけ言って去っていった。修一はその言葉の意味を考えながら、彼女の姿が見えなくなるまで動かなかった。
それから一年後、修一は退職し、故郷の九州に戻ることを決めた。東京での生活に区切りをつけるために。引っ越しの準備をしていた時、偶然、明美の手編みのマフラーのポケットから一枚の紙切れが出てきた。そこには小さな文字で住所が書かれていた。九州、長崎県。そして、「いつか会えることを願って」というメッセージ。
その春、修一は九州への新幹線に乗った。窓の外には桜が満開だった。彼の心には不思議な予感が広がっていた。この旅の先に何が待っているのか分からない。しかし確かなことがひとつあった。
「由美子、明子...そして明美。三人の女性が、それぞれの形で私の人生を導いてくれた」
修一はそう思いながら、マフラーを首に巻き、新たな人生への一歩を踏み出した。届かぬ想いだったはずのものが、もしかしたら、まだ終わっていないのかもしれない。