2.漂着した少女
流れ着いた少女は、穏やかな表情で眠っていた。
荒れた海を漂って来たにしては、彼女が着ているワンピースは汚れもなく真っ白で、その身体には、傷一つ付いていないように見える。
それに、漂着物だらけの浜にも関わらず、彼女の周りだけは、何も落ちていない。
まるで、何か不思議な力が働いているみたいに⋯⋯
「おい、大丈夫か!? しっかりしろ!」
肩を揺さぶりながら、大声で話しかけると、少女はゆっくりと目を開けた。
「おい、俺の言葉が分かるか? 事故に遭ったんか? どこの誰や?」
「⋯⋯わからない⋯⋯どうして、こんなところで倒れているの? 私は⋯⋯」
少女は頭を痛そうに押さえている。
言葉は通じるみたいやけど、頭をどこかで打ったのかも分からん。
医者に診てもらわな。
一度家に戻って、母ちゃんと隣のおじちゃんの手を借りて、この少女を村の診療所に連れて行った。
診察の結果、命に関わるような問題はないとのことだった。
ただし、少女には生まれた時から現在までの記憶がなく、いわゆる記憶喪失状態とのこと。
体格や言葉の発達具合から、八歳くらいだと医者は言った。
「八歳!? ほな、お前、俺の妹になれよ! 帰る家を思い出すまで、行くところもないやろ?」
少女はきょとんとした顔で、俺を見上げている。
きっとこの子は、大漁祭での俺の願い事を聞いた神様がくれたんや。
父ちゃんと母ちゃんを説得し、しばらくの間、この子を家で保護することにした。
本当の名前を思い出すまでは、『ナギサ』と呼ぶ事になった。
ナギサは、すぐに家での暮らしに慣れていった。
「お母さん、手伝います」
表で洗濯物を干していた母ちゃんに、ナギサは声をかけた。
慣れた手つきで、ハンガーに服をかけていく。
ここに来る前も、日常的に家の手伝いをしていたんかも分からん。
「ありがとう。助かるわ。ナギサちゃんは偉いねぇ。コウキとは大違いや」
母ちゃんはナギサの頭を撫でながら、俺の方をじーっと見てきた。
「ほんまやで。俺が八歳の頃は、手伝いなんかほとんどやってなかったわ。さすが俺の妹や!」
二年前なんて、洗濯物を増やすことはあっても、手伝うなんてことは、考えもしてなかったな。
働き者で優秀な妹が出来たことを誇りに思う。
壁にもたれながら、ナギサの働きっぷりを眺めていると、母ちゃんの雷が落ちた。
「ほんまに話が通じん子やね! あんたも暇なら手伝いなさいって言ってんの! 母親と妹にだけ家事をやらせてるようじゃ、立派なお兄ちゃんになれへんよ!」
肩を怒らせて近づいてきた母ちゃんは、俺の腕を掴んだ。
「分かったから! 手伝うから! 離してくれ!」
ほな、お前も手伝えって、最初から言ってくれたらええのに。
ナギサを褒めて、遠回しに俺をけなしていたとは。
こういうのが兄弟喧嘩のきっかけになると、誰かが言っとった気がする。
不貞腐れながら、黙々と靴下をタコ足ハンガーに吊るしていく。
「ふふっ」
ナギサは、俺たちのやりとりを見て、可愛らしい仕草で笑っていた。
夜。
俺の部屋に二組の布団を並べて敷いた。
俺の分と、ナギサの分だ。
「ほな、電気消すで」
真っ暗になった部屋で、仲良く布団に横になる。
「ナギサ、お前はよう頑張ってるわ。いきなり知らん場所に来て、自分がどこの誰かも分からんっていうのに⋯⋯」
記憶喪失になった人間なんて、今までで接したことがないからよく分からんけど、自分やったら塞ぎ込んでしまって、新しい家族にも、なかなか馴染めんかったやろう。
「それは、コウキお兄ちゃんが、優しくしてくれるからだよ」
ナギサは俺の手を握りながら、無邪気に笑った。
その笑顔を見た途端、なぜか一瞬、胸がドキッとした。
よく見たらナギサは、村の女子たちとは比べ物にならないほど、整った顔をしていた。
どこかのお姫様やと言われても驚かんくらい。
「そうか、そうか。俺のお陰か。まぁ、お前をナギサと命名したのも俺やしな。お前は兄ちゃんに、なんでも頼ったらええわ」
人形みたいに可愛い妹に褒められたせいで、さすがの俺でも照れてしまう。
しどろもどろになりながら、なんとか言葉を返す。
「じゃあ、ナギサってどうやって書くの?」
ナギサは、さっそく俺を頼って来たらしい。
夏休み明けから一緒に小学校に通うとしたら、コイツは二年生。
四年生の俺が、しっかり面倒をみてやらんと。
「おう。ナギサという字は、サンズイに者と書くんや。お前が倒れとった、波打ち際から取った名や」
天井に向かって、人さし指を使って、漢字を書く。
「そうなんだ。じゃあ、コウキお兄ちゃんの『コウキ』って、どんな字を書くの?」
「コウキはお前にはまだ早いな。『幸』を『祈』と書く。俺は生まれた時、心臓に穴が空いとったんや。今はもう自然に塞がって、何ともないけどな。そのことを心配した、父ちゃんと母ちゃんが、偉いお坊さんに名前をつけてもらったらしい」
再び指で、空中に文字を書く。
「そうなんだ。心臓に穴が⋯⋯」
ナギサは俺の胸に耳を当ててきた。
その瞬間、再び心臓が激しく波打つ。
「コウキお兄ちゃんの心臓の音、速いね」
ナギサは耳を当てた姿勢のまま話す。
胸に感じる重みとナギサの体温⋯⋯
なんだか妙な気分になってくる。
頭を撫でてやると、ナギサは俺の胸に頬ずりしてきた。
スキンシップが激しいのは、不安の表れなんやろうか。
結局その晩は、しばらくそのままの体勢で眠った。